「インドネシア語史(4)」(2021年06月15日)

そのような政治社会状況はインドネシア語に大きい影響を及ぼした。さまざまな考えや理
解を表明するための民主的言語だったものが、号令と威嚇に満ちた言語に変化してしまっ
たのだ。ganyang、retul、bongkar、jegal、gilasといった類の語彙ばかりが豊かになっ
た。さらにManipol、Usdek、Tubapin等々の思想を国民に教化することが励行され、最上
級から最下層までの公職者・政治家・勤労者・報道陣・ウラマ等々が暗記して使う紋切型
の語彙がインドネシア語の中を満たすことになった。呪文を覚えるようにして、全国民が
そのような言葉を唱えたのである。言葉は個人の考えや気持ちを伝えるものでなくなり、
自分の地位や身の保全をはかるための呪文と化した。さまざまなひとびとが各々の政治的
目的やメリットのために、同一の言葉をさまざまな意味で使った。同一の言葉を正反対の
意味で使って相手を攻撃したり、あるいは自己防衛を行った。

その状況はオルバレジームでも継続した。コンセンサスに依拠したオルバレジームの環境
下に出現した違いは、政治色イデオロギー色に満ちた語彙が減少し、経済活動実践の場に
ふさわしいpembangunan、stabilitas、tinggal landas、pemerataanなどの単語に取って
代われたことだ。そんな違いはあっても、国民思想の教化と強導はますます高まった。P
4(Pedoman Penghayatan dan Pengamalan Pancasila)が義務付けられ、国民の自由な思考
にくび木を付けて締め上げ、思考の自由は伝染病のように見なされて、言語表明は内容を
持たない言葉の羅列に向かった。

スハルト大統領が語ったばかりの呪文文は即座に大臣たちが模倣し、それが上級官僚から
下級役人に至るヒエラルキーの中で繰り返され、報道陣・ウラマ層・将校たちが真似をし
て、全員が国家開発に関わっている自己の姿に陶酔し、あるいはその姿を世間に示そうと
した。しかし、その呪文文を正しいと信じてそのように振舞った者がどれほどいたことだ
ろうか?

言語は、国家開発に参加する扉を開き、結果的にそこから分け前を自分にもたらす、と見
なされる難解な語彙の羅列になった。ニュースはニュースでなくなり、事件を伝えるもの
でなく、国政高官たちが行う内容の不明瞭な発言で満たされるようになった。

自由にして責務を全うするパンチャシラマスメディアという言葉が語られた。それは記者
が記事を書くときに所属メディアが発禁処分を受けないよう、最大の注意を常に払わなけ
ればならないことを意味しており、必然的に報道に使われる言語は不透明なものになった。
批判は過剰なユーフェミズムの中で述べられなければならなかったのである。


   オルバレジーム真っ盛りの1975年に国語育成開発センターPusat Pembinaan dan 
Pengembangan Bahasaが開設され、一般に国語センターPusat Bahasaと呼ばれた。国語の標
準化と、国語が常に良好で適正baik dan benarに使われるようにすることがその使命だっ
た。与えられた予算はかなりの額にのぼり、その予算は調査・指導・セミナー・ワークシ
ョップ・会議・5年ごとの国民言語コングレス開催・毎年10月を国語月間として種々の
催しを行うといったことに割り当てられた。インドネシア共和国政府が国語の育成開発に
それほど大きい関心を払ったことはかつてなかった。ところが結局のところ、その国家機
関の役割は国家運営指導者の言語に貢献するだけに終わってしまった。

そこで行われた標準化には一貫性がなく、おまけに国民が使う国語を監督して、犯罪を取
り締まる警察のような存在になった。あたかも、良好で適正な国語を決める権利を持って
いるのはかれらだけであるという姿がそこに出現したのである。

インドネシア語の将来はどうなるのかという不安を語る声が増加した。ひとびとは学生生
徒の国語能力を嘆き、そればかりかインドネシア語学者や教員の質の低下までもが嘆きの
対象になった。アクロニムの使用がはびこり、文章が頭字語で埋められて意味が理解でき
ないと嘆く声も高まった。その一方で、最初に持っていたインドネシア語のデモクラシー
性は封建的性格へと傾斜して行った。テレビ・ラジオ・映画等々を通してジャカルタ語が
インドネシア語の中に浸透し、マスメディアは国語センター版「良好で適正な国語キャン
ペーン」の実施に熱を入れた。[ 続く ]