「バッタ(1)」(2021年07月23日)

日本語でバッタとイナゴが区別されているように、英語でもlocustとgrasshopperの違い
がある。ところがインドネシア語ではbelalangの一本建てになっている。インドネシア語
シソーラスにはシノニムとしてwalang, jegil, belalak, beliakが記されているものの、
KBBIを見てみるとwalangだけをジャワ語源でブラランと認めているだけで、他の三語
はまったく異なる意味で語義付けされている。

ムラユ語のbelalangとジャワ語のwalangに同一語源からのバリエーションが感じられるの
で、多分別言語体系でのシノニムと認められたのだろう。belalakはbelalangからの音変
化のように思われ、それがbeliakに訛った印象を受けるが、多分一部地域における俗語と
考えられたためにKBBIはそれらをブラランのシノニムとして取り上げなかったのでは
ないだろうか。つまりインドネシア社会は食用になるイナゴと蝗害を起こすバッタを同じ
ものと見なしている印象を受ける。もちろんその観察眼は間違っていない。単に、別の語
彙を作らなかったというだけの話なのだ。

インドネシア語ウィキぺディアによるとbelalangは英語のCaeliferaつまり日本語のバッ
タに相当し、日本語のイナゴはbelalang juta、相変異を起こして蝗害を起こす日本語の
トノサマバッタがbelalang kembara(学名Locusta migratoria)に相当するように書かれ
ている。kembaraは正確にはembaraで、放浪・流浪を意味している。


「食用になる」と書いた通り、インドネシアの一部住民はブラランを食用にしている。ヨ
グヤカルタ特別州グヌンキドゥル県の街道を車で走れば、40〜50匹くらいの生きてい
るバッタをヒゴに挿して房にしたものが道端で売られているのをしばしば目にすることが
できる。10年くらい昔は普通の季節で一房1万数千ルピアだったが、今でも大して変化
はしていないだろう。それが、断食の行われるラマダン月になると価格が倍増する。

グヌンキドゥル県は州内の貧困県だ。およそ70万人という住民人口のうち20万人がジ
ャカルタをはじめ各地に出稼ぎに出る。出稼ぎに出たひとびとが故郷に戻るのは年に一度
のルバラン祭事であり、その祭事を祝うことができるように、ルバラン前には県内の郵便
局に続々と実家宛の送金が届く。故郷の一家はその金で祭事の準備を行い、帰郷して来る
出稼ぎ者を迎えるのである。

かれら出稼ぎ者はたいてい、幼いころからブラランを食べて育った。故郷の味覚にブララ
ンが一画を占めているのであり、帰郷したときには子供のころに慣れ親しんだ故郷の味を
満喫したいと思うのが人情だろう。帰郷者を迎えるたいていの家がブララン食を用意して
帰郷者のノスタルジーの想いを満たしてやろうとする。こうしてグヌンキドゥルのブララ
ン需要は一気に上昇するのである。

このジャワ式バッタ食は、たいていが炒めるか煎るかして作る。味付けは塩砂糖とニンニ
クを溶かした水に漬けておくだけ。味の深くしみ込んだものがお望みなら、バッタを漬け
てある鍋を一度沸かしてやればいい。

かれらのノスタルジーの中にあるブラランゴレンが「美味しいのか?」と尋ねても、どう
やら美味さがノスタルジーの決定項になっていないように見える。殻付きのエビを食べる
ようなあの食感が主要因になっているのかもしれない。

飯のおかずになり、またおやつとしても食べられているブララン食がいつごろから行われ
るようになったのかを知っている人はいない。グヌンキドゥルの大人たちは、子供のころ
から食べており、自分の子供にも食べさせている、と言うばかりだ。

雨季は稲ができるので、稲ブラランを捕まえる。乾季になると稲を育てることができない
ので、チークやアカシアの樹にとまっている木ブラランを捕まえる。と言っても、単に居
場所の違いを言っているにすぎない。木ブラランを捕まえるには、5メートルくらいの長
い竹棒の先にネズミ用のトリモチを薄めたものを綿に吸わせてくくりつけ、高いところに
いるブラランを捕獲するのである。

ブラランの捕獲方法も親から子供に教えられる。しかし昨今の時代はほぼ分業化がなされ
てしまい、ブララン捕獲を商売にする狩り職人の時代になった。かれらはチーク林の奥深
くまで入ってバッタ獲りにいそしみ、獲物がたまった時点で仕事にひと区切りつけると、
今度は街道に戻り、道端でそれを売る。ある狩人は朝から仕事を初めて1千2百匹を捕ま
えた。この仕事で食べて行ける狩人もいるという話だ。[ 続く ]