「スマトラのムラユ食品(2)」(2021年07月30日)

ポンドッパティンのお薦めメニューに、若いピナンの実・ニンジン・卵黄・ハチミツを和
えたピナンジュースjus pinang mudaがあった。ピナンの実はスマトラ島北部の伝統飲料
としてあちこちで飲まれているものだ。ポンドッパティンのピナンジュースはそれぞれの
パートが濾されているため、まったく口の中に滓の入らない、気持ち良い飲み方ができる。

若いピナンの実には渋みがあって、それが少々口中の後味になる。ニンジンと卵黄がそれ
を癒し、最後のハチミツで拭い去られてしまう。これはスタミナ満点の飲み物ではないだ
ろうか。


店主のハジ・ムハンマッ・ユヌスは1987年に飲食ビジネスを始めた。そのとき、自分
は飲食事業の経験を何ひとつ持っていなかった、とかれは回顧する。若いころに、かれは
スマトラ・ジャワ・マレーシア・シンガポールを放浪した。生活費を得るために工事人足
やら運転手やら、ありとあらゆる仕事をした。放浪を終えて故郷に戻ったとき、かれは無
一物で自分の身体以外に財と呼べるものは何もなかった。だがさまざまな体験の果てに得
られた、人間が生きる事の奥義の種が撒かれていなかったはずはあるまい。

故郷は昔のままだった。河の魚は豊富で、ナマズやグラミやパティンが取り放題だ。そう
だ、故郷の魚を使って商売をしてみよう。母親がこの放蕩息子にその事業資金を与えた。
ユヌスはプカンバルのナンカ通りで借家し、食堂事業を始めた。客は三つの粗末な長椅子
に座って食べた。功成り名遂げた今も、かれはその長椅子を店に置いている。

母親がくれた事業資金をかれは自分への投資だと考えた。出資者に配当を返して報いなけ
ればならないのだ、と。「最初の三カ月間、アンコッangkot運転手たちが車を停めて飯を
食いに来た。次の三カ月間はタクシーや中距離バスの運転手たちがそれに加わった。午後
1時には、仕入れた魚は全部売り切れた。」

1992年、市行政がユヌスの食堂に移転を命じた。それからあちこちを転々とした挙句、
最終的に現在のカハルディンナスティオン通りに8百平米の土地を手に入れて、現在の押
しも押されもしないレストラン事業がスタートした。今や、かれの事業はプカンバル市内
有数のレストランとして知られており、地元運転手ばかりか、旅行者までもが立ち寄る店
になっている。


ポンドッパティンは州内を流れる四つの大河、ロカン、カンパル、シアッ、インドラギリ
からパティン魚を仕入れている。いずれの河もパティン魚は豊富に獲れるのだが、各河の
豊漁期がずれていて、三カ月ごとに仕入れ先が変わる。5〜7月はロカン河のもの、8〜
10月はカンパル河のものというように。二週間分としてパティンを店は一度に4百キロ
仕入れる。

たとえばインドラギリ河を深夜24時に出発したトラックは4時間後にプカンバルに到着
する。まだ生きている魚はそのまま、敷地内に作られた養魚池に放たれる。死んだ魚は冷
凍庫に入れられる。魚料理は魚の鮮度が勝負だ。店主は人間が好むものごとをよく知って
いる。


魚料理と言えば、かつてジャカルタにバタム風魚スープsup ikan Batamのブームが起こっ
たことがある。魚は淡水魚でも海魚でもかまわないものの、やはり海岸の町バタムだから
海魚が使われる方が普通だったようだ。たいていは魚のすまし汁スープだった。マナドの
魚スープはスパイス横溢のにごり汁スープになっている。ジャカルタのバタム魚スープ店
でも、客の好みを尊重してスパイスをたっぷり使ったメニューが用意されていたように記
憶しているが、流行に乗ってオープンした小さい店の中にはそこまで手が回らないところ
もあったようだ。[ 続く ]