「ウシ ウシ ウシ(2)」(2021年09月07日)

ともあれ、バリ牛は昔から小屋に繋がれる飼育方法が採られなかったためにその習性が身
に染みついているので、ジャワや他の地域でバリと同じような飼育方法を執ろうとすると、
それができる場所が限られてくるのだという声もある。


インドネシアで牛を飼う行為は古くから、農家が農耕作業のために行うことと、非農家が
換金物品への投資を行うことのふたつの目的で行われて来た。食肉市場への商品供給サイ
クルの一環としての意識はそこに存在しなかった。

もちろん現実には、そのサイクルの一部分を形成していることに間違いはない。しかし牛
やカンビンなどの肥育活動が食肉市場向け供給サイクルの一部分であるという事実とは無
関係に、その流れの中で肥育当事者たちの意識からそのような考えがすっぽりと抜け落ち
ていて、市場の需給関係に応じた飼育家畜の出荷調整などというのはその部分に関してま
ったく存在しなかったということだ。

世界中のたいていの牧場や大規模飼育場は完全に食肉市場への供給サイクルのひとつとし
て回転しているとわたしは思うのだが、インドネシアでは全国的にその種の事業がたいへ
んに少なく、個人が少数の牛やカンビンを飼育する形態がマジョリティを占め、しかも飼
育者の目的が市場オリエンテーションでなくて換金物品の保有になっていたから、飼育者
が市場サイクルの流れに牛やカンビンを戻すのは、自分が金を必要としている時だけにな
った。子供の学校や大学入学費用、通過儀礼祭事、あるいは宗教上慣習上のしきたりなど
で大きい金が必要になると、市場での相場の高低とは関係なく、飼育者は育てて来た家畜
を売った。


投資活動として資産を持つ場合、その資産を常に手元に置いておかなければならない理由
はない。信頼できる人間に預けることは、誰だってする。家畜を自分の資産として持った
としても、自分が牛やカンビンの世話をしなければならないという必然性はない。

土地だってそうだ。将来の経済発展によって値上がりするだろうと見こんだ田舎の二束三
文の土地数ヘクタールを買って、その時期が来るまでその土地に養魚池やドリアン畑ある
いはコーヒー園などを地元農民に作らせ、自分は地主になって年に一二度その土地へ遊び
に出向き、自分の土地で得られた収穫の一部を大量にジャカルタに持ち帰って来ていた普
通の都市中産階級の人間をわたしは何人も目にしている。

地元農民は地主の土地を第三者に勝手に使われないよう見張るだけで、その土地を利用し
て上がる収穫を地代なしに自分のものにできるのである。地主が見張り賃をかれに与える
必要性など皆無だろう。

当時まだ二十代のわたしにランプンのコーヒー園を共同で買おうという話が舞い込んで来
たことがあったが、人生の先行きが五里霧中のわたしには手が出せなかった。もし手を出
していたら、今ごろはランプンの高原で本物のルアックコーヒーを飲む毎日を送っていた
かもしれない。

家畜も同じだ。都市生活者が家畜への投資を行い、家畜は田舎の農家に預けて肥育させる。
その農家が農耕作業の便やミルクを自由に享受できるなら、肥育労賃を農家に渡す必然性
はなくなる。


だから食肉市場で需要過多が発生し、牛肉が大幅に値上がりした時ですら、市場への牛肉
サプライヤーが肥育牛を早めに出荷しようと考えて買付け人を牛がいる村々へ送り出した
としても、どんなに高い買値を提示されても牛のオーナーはなかなか首を縦にふらないの
である。

家畜オーナーのそれぞれが、大量の金を必要とする時期が自分にいつ訪れるかを知ってい
るからだ。子供の割礼の祭事がいつなのか、子供の大学入学が何年先なのか、メッカ巡礼
をいつ行おうとしているのか、そういった予定のための資金として持っている資産を何年
も前に売ってしまえば、その時期が来たときに十分な金が用意できなくなるかもしれない。
市場オリエンテーションを持たない、投資資産としての牛やカンビンの実態がそれなので
ある。[ 続く ]