「ウシ ウシ ウシ(6)」(2021年09月13日)

西ジャワ州チアミス県ランチャRancah郡にはオランダ時代からローカル種の牛がいて、植
民地政庁高官が視察に訪れたり、オランダ人農園主がパーティを催すときにはランチャ牛
のステーキがたいそう好まれた。

マドゥラ牛に似て身体が赤レンガ色のランチャ牛はオーストラリアから輸入される肥育牛
よりも小型で、餌を選ばないために飼育コストも低い。一頭が一日当たり草葉を30〜4
0キロ食べる。背中に黒い筋が一本通っていて、それがランチャ牛を見分ける目印になっ
ている。成長すると体重は3百から4百キロに達する。

輸入牛よりも低価格なために住民の投資先として昔から人気が高かった。仔牛を買って9
カ月間肥育すると、二倍の価格で売れた。廉いのだから、購入も楽だし、売るときに買い
手もすぐに見つかる。一頭当たりが高額な輸入仔牛に投資しても、売りの話を出してから
買い手が付くまでに長い期間がかかるから、ランチャ牛は資金回転の面からも地元民から
の高い人気を誇っている。

ダルルイスラム/インドネシアイスラム軍反乱の時期、西ジャワは反乱軍と国軍の戦争の
舞台になった。そのころ、ダルルイスラムは村にやってきて食糧調達を行い、非協力的な
村は火をかけて灰にした。ランチャ郡は牛を提供したために村を焼かれる被害から免れる
ことができた。村人たちはそのできごとについて、村々は牛に救われたと語っている。

ランチャ牛は出産後また交尾期に達するのに4〜5カ月あればよく、繁殖効率もたいへん
にすぐれている。オーストラリアからの輸入牛が18カ月もかかるのに比べれば繁殖効率
はとてもよいと言える。


牛やヤギの飼育者にとっての魔物がいる。炭疽病だ。英語のanthraxがインドネシア語化
されてantraksになっていて、オランダ語のmiltvuurと異なっているから、現代インドネ
シア語のアントラクスはオランダ語に由来していないと判断できそうだ。

ならば、病理学上の知識もオランダ人からインドネシア人に伝えられなかったのだろうか?
そんなことはたいへんに考えにくい。東インドのオランダ人たちはどの分野であろうとす
べてプリブミに手伝いをさせ、秀でた者は助手に使い、自分の活動の便宜を最大限に高め
ていたのが実態だから、医学病理学の分野だけがプリブミを排除していたとは考えにくい
のである。

19世紀末からジャワ島に原住民医師養成の声がかかってSTOVIAが設けられ、大量のジャ
ワ人医師が島内の疫病対策を行うようになっていった事実を見るかぎり、オランダ人が原
住民行政機構を通じて炭疽病の知識と対策を指導していただろうことは大いに推測される
し、そんな場でオランダ人ドクターたちが手塩にかけたプリブミ助手たちが大活躍しただ
ろうことは十二分に想像されるのである。

なにしろ炭疽病がヌサンタラではじめて発見されたのが1884年のランプン州トウルッ
ブトゥンTeluk Betungであり、翌1885年にはバリ島ブレレンとパレンバンそして再度
ランプンでの発症が報告された。1886年にはカリマンタンからの症例報告まで加わっ
た。

アントラクス研究者の論文によれば、1906年から1957年までの間に牛・水牛・ヤ
ギ・羊・豚のアントラクス発症が報告された土地はJambi, Palembang, Padang, Sibolga, 
Bengkulu, Buktitinggi, Medan, Jakarta, Priangan, Banten, Cirebon, Bogor, Tegal, 
Banyumas, Pekalongan, Surakarta, Madiun, Bojonegoro, Sumbawa, Purwakarta, Sumba, 
Lombok, Flores, Bali, SulawesiSelatan, Menado, Donggala, Paluと実に広範な地域に
わたっている。[ 続く ]