「ウシ ウシ ウシ(8)」(2021年09月15日)

久保さんがインドネシアで自己紹介するとよく笑い声が起こるのは、日本人一般のクの発
音がはっきりしたu音でなく、曖昧なe音に近いからだろうと推測される。ジャワ語のkebo
は水牛を意味している。インドネシア語kerbauがムラユ語由来のように思われるのは、オ
ーストロネシア語族の中で語彙の共通性が感じられるからだ。ジャワ語のクボはその転訛
ではあるまいか。


学名をBos Bubalusとする水牛はアジアの原産で、南アジアの水牛B. bubalis bubalisを
インドネシアではkerbau sungai、東南アジアの水牛B. bubalis carabauesisをkerbau 
rawaと呼んで区別している。つまりkerbau rawaは術語であってrawaが形容詞として用い
られているわけではなく、ゆえに具体的な棲息場所として関連付ける必要性がまったくな
いということだろう。

東南アジアの水牛はインドの野生水牛Bubalis arneeが広まって5千年くらい前に家畜化
されたのがその歴史だそうで、人間との関りはたいへんに古い。インドの野生水牛は水中
にどっぷり浸かることを好んでいたため、それが川水牛という名称をもたらしたのかもし
れない。東南アジア水牛はその嗜好が弱まったために川にどっぷり浸かる傾向が低下した
が、しかし依然として水のある浅い湿地帯を好んで生活の場にしているためにラワという
言葉が添えられているように推測できる。

それはあくまでも傾向の問題であって、インドネシアにいる水牛は川水にどっぷり浸から
ないと言っているわけではないので、誤解ないようにお読みいただきたい。現実にヌサン
タラのあちこちに棲息している水牛の群れが、洪水後まだ水かさの高い場所で頭だけ水上
に出し、時おり潜って水底に沈んだ草を食べている姿は当たり前のように目にすることが
できる。


人間との長い歴史の中で、水牛は人間の精神生活にもさまざまなアイデアを提供して来た。
ことわざや決まり文句の中に水牛が顔をのぞかせることもある。

北スマトラのバタットバ人は水牛を完璧さのシンボルとして扱った。ひとりの人間が生涯
を閉じた時、その者の子供たちが男も女もすべて結婚して子供を作ったのを賞賛してsaur 
matuaの誉れが世間から与えられ、それを賞して水牛が屠られるのである。南スラウェシ
のトラジャ人は水牛を聖なる動物と見なして繁栄のシンボルにした。そのためにトラジャ
人は水牛を買うのに数千万から億の単位にのぼるルピアを支出することを厭わない。他の
土地でも、水牛に高い地位を与えている社会はいくつも見られる。

menghambat kerbau berlabuhという文句の中の水牛は、善き事良き物のシンボルとして使
われている。その一方で、水牛を悪者に見立てた表現もある。kerbau runcing tandukは
悪逆この上もない人間を形容する表現に使われる。

水牛は概して動作が鈍重な印象を与える結果、愚鈍のシンボルにもされた。Kerbau punya 
susu, sapi punya nama.ということわざは、ある者が効用をなしたり、その努力をしたに
も関わらず、その手柄が他人のものにされるということを意味している。あるいは水牛の
群れはおとなしく、また従順に人に従うので、番人を困らせるようなことは起こらないと
いうのに、人間はたったひとりでも番人(保護者)を困らせるものだという時空を超越し
た真理を述べるKerbau seratus dapat digembalakan, manusia seorang tiada terkawal.
という警句もある。この文句の解釈に「女のひとりさえ」という説明を付している性差別
的解説もあるのだが、それは遊び好きな女を娶った夫のケースでしかなく、もっとユニバ
ーサルな真理のあることが忘れられているように見える。[ 続く ]