「スラウェシ島の食(10)」(2021年09月20日)

イギリス人ウォレスが1859年に訪れたマナドとミナハサの地は、オランダ東インド植
民地政庁によって文明化が相当に進んでいた時期にあった。かれの記述によれば、182
0年代ごろまでミナハサ族は蛮人の暮らしをしていて、首狩りをし、住居には狩られた頭
蓋骨がごろごろ置かれていた。人肉まで食っていたと言う話もある。この話の詳細は次の
サイトでどうぞ。51〜52ページ、または見出しのNo.42〜No.43をご覧ください。
http://omdoyok.web.fc2.com/Kawan/Kawan-NishiShourou/Kawan-56EuropeaninNusantara-person-1b.pdf

多分その蛮族時代の文化が、「脚があるものなら何だって食べる。机以外はね。空を飛ぶ
ものなら何だって食べる。飛行機以外はね。泳ぐものだって何でも食べる。舟以外はね。」
という習慣を現代にまで持ち越させてきたのかもしれない。もちろん人肉は禁止されたか
らきれいさっぱりと諦めたわけだが、禁止されなかったものは食い続けたという可能性が
なきにしも非ずだろう。

珍しい物は珍味であるというのがユニバーサルな真理だとはいえ、美味であるかどうかは
別問題だ。美味か不美味かという問題は辣味でベタベタにしてやれば消滅するにちがいあ
るまい。なにしろ、トウガラシさえあれば、不美味なものでもおいしくなるのだ、とミナ
ハサ人自身が語っているのだから。こうして、ヌサンタラで誰もが認めるトウガラシ消費
量最大のミナハサの食確立の一因がそこにあったのかもしれない・・・と妄想は限りなく
広がって行くのである。


1850年代にミナハサの地を巡回視察したオランダ人フラーフランドN Graafland牧師
の書いた記録によれば、牧師や宣教師たちがミナハサの田舎までヨーロッパ文明を教えた
ので、ヨーロッパ並みの文化が行き渡ったとの論評が見える。

かれらは良い住居・良い道路を原住民に教え、ミナハサ女性には衣服の着方・料理の作り
方・家政の整え方を訓練した。その結果、ミナハサ女性はヨーロッパ女性に劣らないエチ
ケットを身に着けた。

その訓練は教会や学校などの公的機関が田舎の村々まで対象にして行ったとミナハサの郷
土史家のひとりは語っている。その訓練の成果は各家庭が子々孫々に伝え、たいへんにヨ
ーロッパ化した現在のミナハサ社会を作り上げた。かれらの生活はパーティ・服装・音楽
・言葉などから菓子に至るまで西洋スタイルに満ち満ちている。スペイン人からはカトリ
リkatriliダンスやパナダを得た。オランダ人からは実にさまざまな文明の産物を得てい
て、マナド語を聞くと西洋諸語に由来する単語のオンパレードの印象を受ける。


マナドの焼き魚はブナケンの対岸にあるマララヤン海岸で愉しめる。海岸沿いに並んでい
るカフェやレストランでは、焼き魚をメインにした種々のシーフードを供している。多く
の店は料理が皿の上に置かれてテーブルに並べられるビュッフェ方式になっていて、客は
現物を見ながらメニューを選択できる。

炭焼きされたバラクーダ・マグロ・イカ・クエなどが、切り身だけでなく角切りを串に刺
したサテ状のものまであり、そして白飯とミナハサのサンバルであるdabu-dabuがセット
になっている。焼き魚にはダブダブが一番よく合うのだ。ダブダブは赤と緑のトウガラシ
・トマト・赤バワン・ライムの搾り汁で作る。

このマララヤン海岸で2007年にシーラカンスが捕獲されて大きな話題になった。raja 
lautと呼ばれているシーラカンスはたいてい北スラウェシ州東南の深海に棲んでいるが、
1998年にも旧マナド島の海岸で捕獲されたことがある。体長130センチ、幅46セ
ンチ、重さ50キロほどの古代魚を昔はミナハサ人が食べていたそうで、オランダ時代に
は魚市場にときどき姿を現していたという話だ。[ 続く ]