「ウシ ウシ ウシ(11)」(2021年09月20日)

ランブソロの儀式では、多数の共同体構成員が手をつないで大きな輪を作り、一斉にマッ
バドンTari Ma’badongと呼ばれる踊りを演じて死者と遺族を慰める。あるいは余興とし
て高級四輪車並みの支出をした水牛に闘牛をさせたりする。ところが闘牛は暴力と賭博の
興奮が葬儀列席者を別世界に連れ去ってしまい、何百万ルピアもの掛け金を張った牛が負
けそうになるとおかしな動きをする者が続出して現場は不穏な状態に包まれる。

ランブソロやランブトゥカの儀式がかなり古くから観光資源になっていたから、現場の防
犯と秩序維持は昔から官憲が関わっていたが、闘牛が行われるとなると治安担当の人数は
おのずと増大する。おまけにこの催しは主催者が行うものなのだから、官憲の費用負担も
主催者のところに回って来る。そんな諸事情をすべて呑み込んで、涼しい顔をして闘牛を
行わせる一族の見栄も天まで届くにちがいあるまい。

そうやってランブソロの儀式が終了すると、遺体は岩山の崖に運ばれて墓に納められる。
その埋葬方式が珍しいと言って、これまた昔から観光資源になっていた。トラジャ人に言
わせると、岩山の崖に遺体を納めるのは、限られた地面を最大限に生産活動に使うためだ
そうだ。大地はすべて農耕と家畜飼育のために使うのが良い。死者は崖の上からそれを見
下ろすだけでよいのだ。死者が大地を占拠するには当たらない、と。


トラジャ人はまた、人間が一生をかけて築いた富を葬式できれいさっぱり使い果たすのは
もったいないのではないかという声に対して、次のように答えている。
人間が一生をかけて集めた富は、死ねばまた社会に還元されるべきものだ。子供たちが遺
産に頼らず、自分もまた無一物から始めて財をなす人間になろうという意識を涵養させる
ためにも、それは意味のあるものになる。

ところが現実問題として、父や祖父が死亡した貧しい家庭はランブソロの儀式を借金して
行っている。かれらは無一物どころか、マイナスからスタートしなければならないのだ。
おまけに、高級自動車並みの価格の水牛を7頭も8頭もつぶす貴族階級の子供は無一物に
なるはずがなく、遺産をあてにして生きている。支配層が築財のための仕事に精を出せば、
被支配層の受ける苛斂誅求が強まって、巷に悲鳴と怨嗟の声が高まるばかりになるだろう。

ランブトゥカの場合は、マッバドンと異なる踊り、マニンボンManimbongが演じられる。
マッバドンもマニンボンもそれらの儀式のときだけ演じられるものだ。こちらは主に豚が
屠られて供される。ランブトゥカは太陽が天中に達する前に行われなければならず、屠ら
れる豚は特別な印が身体に見受けられるものに限られ、屠りは東方に向かって行われる。
トラジャ人の宇宙観では、神は東方に座しているものだからだ。


その慣習祭事のシーズンが近づくと、トラジャの家畜市場は大賑わいになる。地域ごとに
ある家畜市場は市日が違っていて、毎日開かれるものではないが、トラジャの外から水牛
を売りに来た売人が市日の何日も前から商品を送り込んで当日を待つ。クリスマス後の祭
事開催期間に市日になるところは、まるで芋の子を洗うような状態になる。

東ヌサトゥンガラのクパンKupangから水牛を百頭運んで来た売人は、一頭7百万から1千
5百万ルピアの値付けをしている。他にもバリやカリマンタンから売りに来た者がおり、
あるいはもっと近場の南スラウェシ州ルウLuwuや東南スラウェシ州のクンダリKendariか
ら来た者までさまざまだ。もちろん、トラジャの住民でトラジャ水牛を売りに来る者まで
ひしめいている。水牛はと言えば、インドネシア産ばかりか、フィリピン・ベトナム・タ
イ産のもので、輸入されてはるばるトラジャまでやってきた者もいるありさまだ。

マカッサルのハサヌディン大学畜産部教授は、ランブソロとランブトゥカの祭事が毎年水
牛9千頭の需要を生んでいると語る。トラジャ水牛は年間の出生数が1千頭しかおらず、
地元でまかない切れないのは明白で、おのずと県外や島外から水牛が集まって来ることに
なる。[ 続く ]