「スラウェシ島の食(14)」(2021年09月27日)

歴史学者氏によれば、スペイン人が旧マナド島Pulau Manado Tuaに港を開いたのは158
0年のことで、寄港するスペイン船に食糧を供給するために駐在スペイン人がトウガラシ
や穀物類を植えたのが、北スラウェシにおけるトウガラシの事始めだった。

そのうちに船員たちがミナハサの地に定住するようになり、かれらはキマkimaに住んで地
元女性と家庭を持った。スペイン人の妻になったミナハサ女性は夫が教えるスペイン料理
を作った。トウガラシを初めて知ったかの女たちは実家や友人にトウガラシを教えた。

ゴラカで既に辣味志向を持っていたミナハサ社会はトウガラシを受け入れるのに何の不都
合もなく、ほどなくしてトウガラシとゴラカの二本立てが始まった。そして数百年という
長い期間にトウガラシが主導権を握ってしまったというのが、ミナハサのトウガラシ史の
ようだ。


北スラウェシの州都マナドを昔の日本人はメナドと呼んでいた。コンパス紙によれば、ミ
ナハサ語でマナドという地名をジャワ人がMenadoと発音し、またそう書いていたために、
それが国際社会に先に採用されて、非ミナハサ人は一様にムナドあるいはメナドとしてい
たという説明が記されている。

1970年代のジャカルタでは、日本人も含めてインドネシア人もみんなメナドと称して
いたように記憶している。おまけに北スラウェシは、その昔、日本を追われた日本人が移
住して来た土地であり、日本を懐かしんでミナト(港)とか、ゴロンタロ(五郎太郎)な
どという地名を付けた、というまことしやかな話まで聞かされた。確かにマナドよりもメ
ナドの方がミナトから音変化する方向性は近いような気がする。

インドネシアで発見されたシーラカンスにLatimeria menadoensisという学名が与えられ
た事実を、インドネシア政府がミナハサ語のマナドを公式名称として決定するずっと以前
に世界で流通していた常識の反映と見ることもできよう。

ミナハサ語のマナドとは、遠い場所を意味するmana rouあるいはmana douが語源だとされ
ている。日本を追われた日本人も実に遠い場所に港を作ったものだ。


ミナハサ人がマナドと呼んだ土地は最初、ブナケン島の西にある旧マナド島Pulau Manado 
Tuaだった。そこには王宮があって、領主がそこを支配していた。陸地半島部のミナハサ
人がそこへ行く時に「遠方へ」と言い、それがその島の地名になった、という流れがその
説明から推測される。

ところが旧マナド島で良い生活用水が得られなくなり、一方でボラアンモゴンドウの王か
らの支配圧が強まった結果、ひとびとは島を捨てて半島側に移り、現在のマナド市北部に
移住した。それが現在のマナド市の発端だそうだ。

マナド人をorang Kawanuaと呼ぶ表現が時おり見られる。wanuaは古ムラユ語で居住地区/
部落/集落を意味しており、desa/negeri/nagariなどの類語と説明されている。w→bの異
音変化からwanua→banua→benuaの関連性は十分に考えられるところであり、現代インド
ネシア語でbenuaは大陸をその語義と定めているものの、古代にはもっと狭い人間の集合
居住地を示す言葉だったとも指摘されている。

カワヌアはミナハサ族全般を指して使われることもあるが、特にマナドの衆を意味する語
法が一般的なようだ。だから時と場合によって、ミナハサ料理=マナド料理=カワヌア料
理という同義語用法が発生することも稀でない。[ 続く ]