「イ_ア東部地方料理(4)」(2021年10月04日)

フローレス島東端のララントゥカLarantukaはポルトガル人が作った町だ。元々は地元の
王が王宮を置いていた場所だが、ポルトガル人が居留を求めて許された。そのうちにポル
トガル人は地元の王家を懐柔し、西洋文化の紹介と宣教活動を通して地元民を心服させ、
指導権を握るのに成功した。そうしてララントゥカは西洋文化の町になった。

その時代にポルトガル人がヌサンタラのほとんど全域に手掛かり足掛かりを設けて物産と
富の収集に精出していたことへの認識があまりにも薄いのは残念だ。オランダ人がやって
くる前はポルトガル人がヌサンタラをわが庭にしていたのである。それをオランダ人が力
づくでポルトガルを蹴落として、その座に取って代わった。東ティモールだけが残ったの
は、そこを取ってもメリットがないとオランダ人が判断したためであり、オランダ人とポ
ルトガル人が領域を分け合ったのでは決してない。ポルトガルが威勢を誇った時代の概略
は拙著「ヌサンタラのポルトガル人」をご参照ください。
http://omdoyok.web.fc2.com/Kawan/Kawan-NishiShourou/kawan-34European_in_Nusantara-1.pdf


ポルトガル人が強い土着化傾向を持っていたのは、ポルトガル王国がそれを海外進出の際
の方針にしたからだろう。ポルトガル人がアフリカとアジアの各地に拠点を作ったとき、
その拠点のひとつの機能である「ポルトガル船隊への物資補給のための寄港地」の充実度
を高めるために、ポルトガル人兵士に土着することが勧められた。土着化して原住民を統
率し、食糧生産と混血ポルトガル人を作り出すのがその主目的だ。つまりポルトガル王国
にとっては、植民とはポルトガル人がその地の社会に入って行ってポルトガル文化を植え
付け、そこをポルトガルの一部にすることを意味していたと解釈できる。土地だけでなく、
そこの先住民である人間ごと丸抱えでそれを行うのである。

ポルトガル民族というひとつの人間集団の中に異民族の血の混じった混血者の存在を最初
から想定していたところが、あの時代の人間観においてきわめて特異なセンスだったので
はないかとわたしは思う。西洋世界の他の諸民族は20世紀後半になるまで自民族混血者
を純血者に対する劣等者と見なし、差別していたのが普通だったからだ。ここ半世紀くら
いにその差別は西洋世界でやっと大幅に低下したように見えるが、東洋の果ての島国がそ
のレベルに達するのはいつのことなのだろうか。世の中に混血者が当たり前のようにいる
風景が実現しなければ、その島国の民族観は変わらないのではないかという悲観論にわた
しは陥っている。

実は、ポルトガルばかりか、スペインも同じような傾向を持っていたような印象がわたし
にはある。ヨーロッパの他の地域から、果てはほとんど世界中が民族純血主義に立ってい
た14〜15世紀ごろ、民族の一体感は血統でなく文化が作り上げるものという理解をい
ったいどうしてイベリア人だけが持つことができたのか、わたしには謎だ。非ヨーロッパ
人との混交社会を長期にわたって体験したことがそれを可能にしたのだろうか?


土着化した人間は、その土地で得られる資源資材を使って自分が持っている文化に立脚し
た生活を営もうとして当然だ。食べ物、そして料理もそうだ。自分の母国で食べていたも
のや調理法を、土着した土地で得られる素材で再現しようとするために、おのずとクロス
カルチャーがそこに出現するのである。

フローレス島東部地方の食卓では、鮮魚あるいは干し魚、トウモロコシ、芋類、ワサビノ
キkelorやバナナの花などの野菜がメインを占める。ララントゥカで一般的な料理は魚の
酸味スープikan kuah asamだ。この料理にはマハタkerapuやフエダイkakapが使われる。

酸味はブリンビンウルbelimbing wuluhから取られる。スターフルーツと呼ばれる果物の
ブリンビンとは味もサイズも色も形も大違いのブリンビンウルは料理用スパイスとして使
われるため、belimbing sayurとも呼ばれる。[ 続く ]