「イ_ア東部地方料理(8)」(2021年10月08日) アンボンの町からほぼまっすぐ北に5百キロ近く離れたティドーレとテルナーテの島々に は、インドネシアに珍しい魚のルジャッがある。魚を使ったルジャッは他の場所で聞いた ことがない。豊かな海に囲まれた島の漁民たちが昔から食べていたgohu ikanがそれだ。 ルジャッは一般に新鮮なフルーツに甘辣いソースをかけて食べるもので、酸っぱい未熟フ ルーツを混ぜることが多いために甘鹹酸辣の入り混じった味が楽しめる。これをフルーツ サラダと呼ぶことも可能だが、こんな味付けのフルーツサラダが世界の他の場所にあるの かどうか? シンガポールやマレーシアへ行くとロジャッrojakには揚げ豆腐・揚げエビ・ゆで卵など が加えられてフルーツサラダの趣がなくなってしまう。ましてや、北マルクのゴフはカツ オの生あるいは熱油を振りかけただけの半調理の身が使われるのだから、フルーツサラダ から離れすぎてしまうことになるだろう。現実にインドネシア人ですら、昨今はゴフイカ ンをルジャッという感覚で見ることをしなくなっているようだ。 このゴフイカンを単にゴフと呼ぶと北スラウェシの別の食べ物と混同するために、話がま だ通じていない相手に対してはゴフイカンと言わないと誤解される恐れが高い。話題が共 通項になれば、ゴフと省略しても話がおかしくなることはあるまい。だから、この後はゴ フと省略させていただくことにする。 因みにマナド人のgohuは半熟パパヤのアシナンasinanであって、魚の要素はまったく混じ っていない。gohuは語源がkohuとされていて、kohuは生食を意味している。素材が生のま まの調理品がgohuと呼ばれるようになった可能性がそこから感じられる。上で述べたアン ボンのkohu-kohuも、最初スマの身は生が使われていたのではないだろうか。 元々、漁民がゴフに使う魚は生食ができるものなら何でも良かった。しかしカツオの身が 最高であるのは言うまでもないため、おのずとカツオのゴフが普及して、ゴフと言えばカ ツオという常識ができあがってしまった。 ゴフにするカツオは漁船から水揚げされたばかりのものを即買って来る。身の肉を薄く短 くそいでから落ちる水滴がなくなるまで絞る。それに弱く熱したココナツ油をふりかけて、 身の全体に行き渡らせる。表面だけに熱を加え、中は生のままというのは、土佐造りによ く似ているが、中には熱をまったく加えないままゴフを作る人もいる。その場合は刺身に 近いだろう。その上からライムの搾り汁をふりかけて臭みを抜くと同時に柔らかくする。 インドネシア人に言わせると、このゴフイカンもサシミの一種だそうだ。 赤バワン・トウガラシ・バジルの細切れと塩を混ぜたブンブにカツオの身を混ぜ合わせれ ばゴフができあがる。ブンブの量はお好み次第ではあるものの、地元漁民たちはやはり辣 い方を好む。 ゴフを食べるときはたいてい、キャッサバで煎餅状に作られたkasbiあるいはサゴを3x 10センチの板状にしたsagu kasbiと、ココナツミルクで煮たバナナを一緒に食べる。カ スビをスプーン代わりにしてゴフをすくい、口に入れながらカスビを齧るのがゴフを味わ う究極の作法だそうだ。サグカスビは少し硬いので、その食感に抵抗があればカスビとバ ナナにする方が良いだろう。ゴフとカスビとバナナが口中で溶け合うのがゴフを味わう醍 醐味になっているが、それだと土佐造りを食べた気がしないという方はバナナを外すのが 賢明かもしれない。しかしながら、地元民はこのゴフイカンはコメの飯と合わないと言っ ているので、土佐造りを期待する方が多分間違っているのだろう。 ゴフを食べ終わったら、濃い甘茶で締めくくる。茶の渋みが口中の油を溶かし、温かい茶 が胃を温める。甘茶でなくて無色アラッarak putihを仕上げに使うひともいる。[ 続く ]