「イ_ア東部地方料理(13)」(2021年10月15日)

バンダでは普通このスープを、茹でてから炒めたパパヤの葉、焼きフエダイ、サンバルブ
カサンbekasangのセットで食べる。もちろん白飯と一緒に食べるのも自由だ。パパヤの葉
の苦みを取るには、まず粘土の水で一度煮る。そのあとよく洗って細切りにし、ニンニク
・赤バワン・トウガラシ・トラシをすり合わせてパパヤの葉と混ぜ、弱火で炒める。塩・
砕いたクルミ・水少々を加えてさらに炒めればできあがる。

パパヤの葉よりもう少し贅沢に作られたulang-ulangという野菜サラダもある。ウランウ
ランはカンクン・ササゲ・ナス・モヤシ・ニンジン・キュウリをトラシ・潰したトウガラ
シ・砕いたクルミ・塩・酢のドレッシングで和えたものだ。ウランウランはそれだけで十
分な白飯のおかずになる。

ブカサンはカツオの身を挽いて塩を混ぜ、一週間放置して発酵させたもので、魚醤の塊の
ようなものができあがる。魚の内臓を発酵させて作るブカサンもある。どちらにせよ、一
種のトラシと呼べるかもしれない。それにリモミカンjeruk limauやトウガラシ、赤バワ
ンにトマトを加えてサンバルにしたものがサンバルブカサンだ。

バンダではこの種のものがブカサンと呼ばれるが、北スラウェシではbakasan、南スマト
ラではbekasamと少し異なる名称に変化する。


イギリス人ウォレスが船作りの達人と称賛したケイ島のひとびとはカスビを主食にしてい
る。カスビとは英語でキャッサバ、インドネシア語でsingkong, ubi kayu, ketela pohon
などと呼ばれる物品だ。この南米原産の食用植物をインドネシアに紹介したのは16世紀
のポルトガル人で、ヌサンタラ内では言うまでもなくマルク地方が最初だった。

インドネシア東部地方でカスビという名称が一般的なのは、ポルトガル人がカリブ地方の
タイノ人の言葉kasabiという言葉を使ってそれを紹介したからだそうだ。カスビという言
葉がインドネシア語にならなかったのは、インドネシア共和国がヌサンタラ西部のひとび
との主導で建設されたためだろう。

マルクに伝えられたあと、徐々に西方に伝来してきたものの、それは食用にされなかった。
芋の部分に含有されている毒性のためだったのかもしれない。マルク地方ではその毒性の
ために少なからぬ犠牲者が出たそうだ。西部地方ではカスビという名で呼ばれず、ウビカ
ユという名称が一般化した。ジャワ人はテロtelaと呼び、インドネシア語に取り込まれて
クテラketelaになっている。

ヌサンタラ西部地方でそれを食糧として生産するようになったのはダンデルス総督が号令
をかけたためだった。そのためにジャワ人はテロをtela jendralと綽名した。そういう話
がネット上に見られるのだが、そのジュンデラルはファン・デン・ボシュ総督だったかも
しれないようにわたしには思える。

ジャワ島住民にとっての主食は昔からコメの飯が常識であり、テロを主食として食う者に
対する蔑視が起こったのは言うまでもない。オランダ人にしてみれば、地元民が食わない
のなら、輸出するまでのことだ。ファン・デン・ボシュの栽培制度が商業作物の生産と輸
出を狙ったものであり、そのためにジャワ島農民のコメ生産が激減したとき、農民のみん
ながテロを食っていれば飢餓は起こらなかったかもしれない。しかしテロを食うくらいな
ら死んだ方がましだと言うのなら、テロは輸出すればよいのである。

テロを食用粉末に加工する産業をジャワ島在住華人が担った。華人たちは福建語でウビカ
ユを樹葛singkongと呼んだ。かれらはまた、テロ粉末を米粒のように作る技術を開発して、
コメから離れられないジャワ人の心をくすぐった。tiwulと呼ばれるテロ粒の飯は、ウォ
ノギリ・パチタン・グヌンキドゥルなどの稲の育ちにくい地方でよく食されている。


ケイ島民はカスビの粉末で作ったエンバルembalを主食にしている。エンバルは四角い煎
餅状の食品で、汁気の多いおかずに浸して柔らかくし、それとおかずを一緒に食べるスタ
イルが一般的だ。朝食にエンバルを茶やコーヒーに浸して食べるひともいる。[ 続く ]