「イ_ア東部地方料理(14)」(2021年10月18日)

ポルトガル人がカスビをもたらす前は、ケイ島もサゴ文化圏の中にあったためにサゴを主
食にしていた。そこにカスビがもたらされて二頭立てになったわけだ。1970〜80年
代にかけて、マルク地方でサゴ危機が起こり、食用に加工されたサゴの供給が激減した。
ケイ島民がカスビをせっせと作るようになったのは想像にあまりある。しかし、もっと昔
からエンバルが主食になっていたと地元民は語っている。


エンバルの製法は、まずカスビの皮をむいて身をすりおろし、水分を徹底的に絞ってから
またよく洗浄する。そうすることで毒性が極小化される。残った滓を型に入れ、60℃く
らいの温度で焼く。焼いたあと天日乾燥させてカリカリに干すと出来上がる。冷暗所で保
存すれば1〜2年は問題ない。お隣のパプア島ではサゴが依然として主食になっており、
パペダの形で普通に食べられている一方、ケイ島ではサゴが見離されてエンバルに変わっ
てしまった。

オルバレジームのコメによるヌサンタラ統一方針の結果、コメを食べるのが文化人である
という意識が非稲作地方に浸透したのは、マルクからパプアにかけての東部地方で共通の
できごとだった。稲作が推進され、不足分は米作地帯から廉価な援助米が送られてきたが、
海上輸送に難が起こるとたちどころに元の主食が復活した。

ジャワ文化によるヌサンタラ統一の失敗によって、現在のインドネシアでコメへの同調圧
は消滅したものの、いまだに習慣的にコメを食べているケイ島民もいる。かれらは朝だけ
エンバルを食べ、昼と夜の食事にはコメの飯を食べている。

今ではチョコ味やチーズ味のエンバルが作られて、トゥアルTualやケイクチルKei Kecil
島のラングルLanggurを訪れる外来客のよいお土産になっている。昔、ケイ諸島ではトゥ
アルが地域最大の町だったが、ドゥラ島に位置するトゥアルからケイクチル島のラングル
に東南マルク県の首府が2011年に移転されている。


ニューギニア島はグリーンランド島に次ぐ世界第二位の巨島だ。そのおよそ半分を占める
インドネシア領土は、インドネシア国内で最大の面積を持つ地方になる。この島のエコロ
ジーはオーストラリア大陸型で、中央高地部に人間が住むようになったのは3万年前から
だった。ところがそこに住んだ人間たちは統一されたことがなく、いまだにたくさんの種
族に分かれて別々の言葉を話している。パプアと呼ばれるインドネシア領土地域だけでも
269の種族語が存在する。

パプア高地部に住んだひとびとは農耕者だった。アメリカ大陸原産のサツマイモがいった
いどのようにしてここまで伝来してきたのか分からないものの、パプア高地人はサツマイ
モを栽培してそれを主食にしてきた。パプアの地勢を沿岸部・高原部・山岳部に分けるな
ら、山岳部がもっとも人口が多い。沿岸部は暑く、湿度が高く、そしてしばしば大雨が降
って洪水になるのだ。

そしてサツマイモの畑作が一番盛んに行われているのも山岳部なのである。かれらが扱っ
ているサツマイモは百種にのぼり、色・サイズ・味に違いがある。ワメナではサツマイモ
をヒペレhipereと呼び、バリエム渓谷のひとびとはフプルhupuruと呼んでいる。西部パプ
ア地方へ行くと、エロムeromあるいはンビッmbikがその名称だ。


高原部や山岳部の人口密度が高いために、限られた土地を利用して食糧生産を最大限に高
める技術革新が必要になった。たとえばバリエム渓谷東部に住むヤリ族は、土地の傾斜を
5段階に分類して、それに即したサツマイモの栽培方法を5種類使い分けている。

バリエム渓谷にあるどの畑でも、サツマイモ・キャッサバ・ウウィuwi・タロイモなどが
同じ畑に同時に植えられている。インドネシア語ではその農法をtumpangsariと称する。
日本語では多分混植に該当するのだろう。二毛作と訳しているサイトがあるが、その語義
はインドネシア語の内容と厳密に一致していないように思える。

またguludanと呼ばれる盛り土の長い畝を作ってバナナやブアメラbuah merahを栽培する
技術は7千年前から始められ、灌漑用水技術も4千年以上前から始まっている。グルダン
は大切な財産である豚の食糧供給にも役立っている。豚は結婚の結納や祝祭または儀式の
饗宴のためにきわめて大切な資源であり、高地人にとって豚の飼育も農耕に劣らない重要
な活動なのだ。[ 続く ]