「ヌサンタラの馬(10)」(2021年10月18日)

ビマ王国スルタンの専用馬はManggilaと命名された白馬で、代々のスルタンが乗る白馬は
マンギラの名前が相伝されたそうだ。ビマスルタン家の子孫である老齢の女性は、ビマ馬
がいかにビマ王国軍騎馬部隊を優れた軍事力にしていたかについて、実際に目にした騎馬
部隊の話を物語っている。また昔のビマで夫婦が長旅に出る時は、一頭の馬に大きい鞍を
置いてふたり一緒に乗るのが普通だった、ともかの女は語っている。ビマ馬は、不屈の闘
志、質素な暮らし、目的成就のための意志を象徴するものとされ、乱暴に扱われないかぎ
り主人によく馴れて従順に従う性質を持っていた。

18世紀、ビマ王国第8代のスルタン・アブドゥル・カリムのとき、マドゥラ島の王子の
ひとりがビマ馬を数頭買いたいとスルタンに注文したことがあった。そのころ、王国はウ
ェラ、ランブ、カンガ、パイレ、サゲアンダラッ、サゲアンアピ、ポジャの村々に馬の牧
場を設けていた。

1825〜30年の間、ジャワを震撼させてオランダ植民地政庁を苦しめたディポヌゴロ
戦争では、ジャワ人の軍勢に再びスンバワから多数の馬が送られている。

バタヴィアのオランダ人もビマ馬の強靭さ、気候変化への耐久力、主人によく馴れるとい
った特徴を高く評価し、たいていの総督が自分の乗馬にビマ馬を選んだ。

1886年12月20日付けで書かれたビマ王国とスラウェシ行政長官ファン・ブラアム
・モリスDP Van Braam Morris間の覚書には、スラウェシとジャワにビマ馬が年間1千か
ら1千5百頭送られたことが記されている。馬の価格は40〜50ポンドスターリングと
値付けられた。その当時、ビマでの馬の相場は15〜25ポンドスターリングだったそう
だ。


現代スンバワ島民の祖父母の時代には、一家一族は通常、百頭を超える馬を持ち、決まっ
た時期には大勢が山へ馬を連れて入り、蜂の巣・綿の実・その他の山の幸を背に載せて帰
って来た。あるいは農耕の収穫期になると、何百頭もの馬が背にトウモロコシやコメの入
った袋を積んで、長い列をなして町や港に向かって街道を歩んだ。

それほど馬に満ち満ちていたスンバワ島から、馬の数が減少した。あれほど軍用馬の代名
詞のように語られたビマ馬の需要も激減した。今やビマのひとびとはどのようにしてビマ
馬を存続させようかと腐心している。というのも、スンバ島のサンドゥル馬が競走馬とし
ての名を高めた結果、スンバワ島でも伝統的に盛んだった競馬で行政高官や富裕者・社会
有力者の間に地元馬よりもサンドゥル馬を使う傾向が起こったからだ。2009年には、
10日ごとに20頭のスンバ馬がビマに送り込まれて来た、とビマ馬保存活動家のひとり
は述べている。

一般には、ビマ馬のメスとサンドゥル馬やサラブレッドのオスを交配させて、ビマ馬が持
っている力仕事への強靭さとオス馬の俊足さを子供に受け継がせ、競走馬の適性をビマ馬
に加えることで生殖資源の保存を図る考え方が主流を占めている。


スンバワ馬は草原がかれらの住処だが、高床式に作られた飼い主の家の床下にも住んだ。
草原で裸馬の放し飼いがなされているだけなのに、馬は自分の飼い主を覚えており、飼い
主もたくさんの馬たちの中にいる自分の飼い馬がどれなのかが分かった。

馬はスンバワ島民の暮らしの一部になっていて、所有している馬の多寡が島民の社会ステ
ータスを決めた。馬があってこその経済活動であり、社会活動になっていたのだ。だから
王族貴族はたくさんの馬を持つのが当たり前であり、民衆の経済活動のために馬を使わせ
ることは当然行ったが、自分たち自身が使うのは娯楽が目的に決まっていて、そのひとつ
として競馬で遊んだ。伝統儀式の中に馬を使う様式もいろいろと案出された。

人間の暮らしに関わって人間と一緒に生きている馬だから、馬も人間並みの扱いをされた。
馬が死ぬと、人間と同じようにカファン布に包まれ、死者への祈りが捧げられるのが普通
だった。

頭と首に旋毛のある馬はpalisu pantapajuと呼ばれていて、家を守る力を持っていると島
民はいまだに信じている。パリスパンタパジュ馬は求める者が多く、必然的に値が上がる。
パリスパンタパジュは、泥棒や悪意悪事を意図して家に近付いて来る者があると、それを
飼い主に教えてくれるというのが、島民が信じている「家を守る力」の内容だそうだ。
[ 続く ]