「ヌサンタラの馬(11)」(2021年10月20日)

だが今や現代化の波に洗われたスンバワ島では、人間と馬の関係が変化してしまった。1
990年代にsusu kuda liar Sumbawaの名前が全国的な知名度を得て、スンバワ島の特産
物として国内商業流通網に載ったとき、島内の各村で馬乳生産が盛んに行われた。メス馬
を持っている家は毎朝乳を搾り、容器に入れて家の表に置いた。

収集業者が毎朝村を回って馬乳を集め、それを商業生産者に届けるというサイクルが作ら
れた。そのころ、馬乳生産者はリッター当たり10万ルピアの現金収入を得た。その収入
が子供たちの学歴を高卒に押し上げ、中には大学まで昇り詰めた幸運児もいた。農牧だけ
が生計であったなら、中卒がいいところだったのだ。

あるいはメッカ巡礼を行い、煉瓦作りの家を建て、自家用二輪車や家電品を持つモダンラ
イフスタイルを実現させることができた。元々はスンバワ島でも、馬乳はメス馬を持って
いる家の家族や隣人が飲むだけのものだった。牛より馬の方が一般的なこの地方では、新
鮮な牛乳が商品として流通していなかったのだ。


ススクダリアルスンバワの知名度が高まってブームになると、悪徳行為がしのび寄って来
た。商業用生産者の中に、純乳に水を混ぜ抗生物質を加えて相場価格で売る者がたくさん
加わった。その事実が世の中に知れ渡ると、消費者はニセモノを嫌ってススクダリアルス
ンバワのラベルを信用しなくなり、純乳の正当な商品すら見向きもされなくなった。

一方生産農家に対しては、悪徳収集業者が支払いを滞らせ、最終的に未払いのまま踏み倒
して逃げた。悪徳業者に魅入られた村の中には、未払金が7千万ルピアに上ったところも
あった。そんな村では生産農家のほとんどが馬乳生産に嫌気をさし、馬乳搾りのために持
っていた馬を売り払って、トウモロコシや大豆の生産に転換してしまった。馬の多くはマ
カッサルに売られて行った。

そんなできごとが、スンバワ島民の暮らしに馬離れをもたらす傾向に拍車をかけたにちが
いあるまい。今では、村人の足は馬から自動二輪車に切り替わり、建てられる煉瓦作りの
家屋に馬を置く場所は設けられていない。 

王族貴族に成り代わって現代社会に登場して来た政治や行政の高位高官たちは、何世紀に
もわたって培われて来た伝統的な娯楽である競馬を担う役割をだれに言われるでもなく引
き受けて、自ら競争馬を何頭も持って愉しんでいる。

病気や怪我、あるいは加齢のために馬としての機能が果たせなくなった者たちは、往々に
して家畜屠殺場に運び込まれている。スンバワ島民は馬肉に特別な健康上の効能があると
信じているのだ。


地元語でpacoa jaraと呼ばれているスンバワ島の競馬は主に子供競馬だ。インドネシア語
にするならpacuan kudaだろう。パチョアジャラは島内各地の村々で何百年も前から伝統
行事として行われて来た。ドンプ県ルパディ村では、幼稚園から小学一年生くらいの子供
たちがジョッキーになって競争する。

騎手が何歳であろうが馬はそんなことにおかまいなしに、全速力で疾走する。そりゃ危な
い、だって?幼い子供たちは馬に乗っているのでなく、馬を駆っているのである。勢いあ
まって落馬する子もいるが、怖がる様子はさらさらない。

直線コースのアリーナとギャラリーを隔てる柵があるだけの馬場で、柵の向こう側には千
人を超える見物人が陣取り、声援を送り、歓声を上げる。どよめきは、人馬がゴールに達
するまで鳴りやまない。

パチョアジャラは県の創設記念日や国の独立記念日の催事として行われるのが普通であり、
地元自治体が主催するケースがほとんどのようだ。昔はきっと、王国の祭事や村の祝祭を
彩る行事として行われていたのだろう。

幼い子供たちに馬と親しむ機会を与えようとして、馬と共に生きる伝統が子供競馬を行わ
せるようになったことは想像に余りある。つまりパチョアジャラは単なる速さ競べにとど
まらず、子供の心身を鍛錬する場として営まれて来たはずだ。馬の背に座った子供たちの
プライドはきっと、その子の生涯を逞しく導いていくことだろう。[ 続く ]