「ヌサンタラの馬(31)」(2021年11月17日)

ところがブタウィ史家アルウィ・シャハブ氏は、1930年代の恐慌で激増した失業者に
職を与えるために、シンガポールと香港からリキシャが輸入され、数少ないながらバタヴ
ィアの街を走っていたと書いている。何台輸入されたのか分からないものの、日本軍がや
ってくる直前には百台足らずがバタヴィアの街を走っていたという話になっているのだが、
上に書いた諸情報に照らして見ると、そこで述べられているリキシャが人力なのかサイク
ルリキシャなのかが判然としなくなってくる。

別の資料によれば、乗客運送用三輪自転車(つまりサイクルリキシャ)は1936年にバ
タヴィアでテスト走行が行われ、37年にはバタヴィアで2百台が稼働していたと書かれ
ている。現代と違って植民地時代は、地方の人間が首都に上京して一旗上げようとする習
慣がまだ育っていないためにベチャ引きの成り手が少なく、おまけに中流以上のバタヴィ
ア庶民は馬車に乗る方を好んだから需要もそれほど起こらず、ベチャの台数は最小限に保
たれていたらしい。


日本軍政期の様子については、1943年ジャカルタ市内のベチャ台数は3千9百台とな
っていて、顕著な増加を示している。日本軍政は民間が持っている四輪二輪の自動車を片
っぱしから徴用して軍隊が使ったために、オランダ時代に路上を埋めていた四輪自動車タ
クシーが姿を消した。

パサルスネン地区でオランダ時代にトラックを十数台持って運送業を行い、大いに繁栄し
て広い土地の大地主になっていたプリブミ一家が、やってきた日本軍に代償なしにトラッ
クを一台残さず取り上げられ、日本時代の三年半はなんとか食いつないだものの、独立革
命期にはいると広い土地の借地人借家人が地代家賃を払わなくなって不動産を自分の物に
してしまい、共和国独立の過程がその一家の没落の過程になったと物語る年寄りの話を聞
いたことがある。インドネシアの独立革命は確かに革命の要素を含んでいたのである。

四輪自動車タクシーが町から姿を消したために、自転車の人気が爆発した。だが家族連れ
でどこかへ行こうとするとき、妻子を自転車の荷台に乗せるのは容易でないから、必然的
にデルマンやサドといった馬車に加えてベチャの需要も起こっただろう。軍政期のジャカ
ルタでも幹線道路は路面電車やバスが走っていたが、幹線交通路から外れた場所へ行くに
は、最寄りの電車やバスの停留所から人間を運んでくれる運送機関が必要になる。だから
ベチャが増加することは当然の成り行きだったようにわたしには思われる。


ジャカルタでベチャが激増したのは1950年代に入ってからであり、1951年には2
万5千台のベチャがジャカルタにひしめいていた。ジャカルタがインドネシア共和国の首
都に復活したあと、ダルルイスラム反乱によって西ジャワ・中部ジャワから一部住民がジ
ャカルタへ避難して来たために豊富なベチャ引き労働力が用意されたことがその現象に結
実した。その2万5千台のベチャで7万5千人が職を得ていたそうだ。ベチャは24時間
稼働し、ベチャ引きが三シフトで一台のベチャを使っていた。50年代末期にジャカルタ
のベチャは3万台に達していたようだ。

その時期、華人頭家が数十台のベチャのオーナーになり、ストラン制を使ってベチャ引き
に運行させる方式が一般化した。頭家はたいてい自宅にベチャの修理工房を用意して、ベ
チャ引きからの修理需要も吸い上げた。


ジャカルタ市議会は1967年に市庁の首都開発20年計画マスタープランを承認した。
その中にベチャは公共運送機関としての位置付けを与えられていなかった。つまりジャカ
ルタ行政は最初からベチャを公認しなかったのである。

スカルノ大統領は実際に行われているベチャの事業形態を小資本家によるプロレタリアー
トの搾取、つまり人間による人間の搾取、と見ていた。ところがジャカルタにベチャは増
加する一方で、ホテルインドネシア・ホテルデザンド・ホテルネーデルランデンなどの高
級ホテルの外に客待ちのベチャが集まってホテルを取り囲むようなありさまが普通になり、
ジャカルタは世界に名だたるベチャの町の異名を与えられた。

1956年にスカルノ大統領が米国を訪問したとき、ハリウッドを訪れて銀幕のスターた
ちと会った。ジーン・シモンズが「ジャカルタを訪れて、ベチャに乗ってみたい。」とス
カルノに語ったとき、かれはどのような顔をしたのだろうか?[ 続く ]