「ジャワ島の料理(12)」(2021年11月19日)

ヨグヤカルタのサナタダルマ大学教官は、ヨグヤ人とソロ人の外食観には明らかに違いが
ある、と語る。
「ヨグヤ人の観念はOjo ninggal pawon anget.つまり『温かい料理が生む自宅の台所の温
もりを捨ててはならない』というものだ。ヨグヤ人は出かける前に、できる限り家で食事
をしてから外出する。一家一族が打ち揃って外食をするような文化ではない。全国からヨ
グヤの大学に学生が集まるようになって、ヨグヤに外食産業が興隆するようになった。だ
からヨグヤのフードセンターやカフェなどにいるのはたいていが若者、特に大学生だ。
反対にソロでは、年寄りから孫までが一家そろって道端のテント屋台やワルン食堂で食事
する姿が一般的だ。このソロとヨグヤの外食に対する姿勢の違いは歴史が作り出したもの
だ。」

それについて、ガジャマダ大学歴史学者はこう説明している。
1830年にディポヌゴロ戦争が終わったあと、ソロとスマラン間の交通が盛んになった。
中でも鉄道が直接ソロとスマランを結ぶようになって、港町スマランに内陸部から運ばれ
て船積みされる物産が増加した。

スマランとの地理的なつながりがヨグヤよりもソロの方に分があったことから、ソロにさ
まざまな人間がやってきて住み、働いた。ソロはヨグヤよりもはるかに強く都会化したの
である。マンクヌゴロ家が1870年に農園と砂糖工場を設けると、スマランからの砂糖
輸出は圧倒的な勢いを帯びるようになる。中部ジャワで農園事業を行う西洋人が増加し、
それら農園主に土地を貸して巨額の現金収入がソロの王族貴族と王宮の用人たちの手に渡
るようになってからは、王宮のライフスタイルはヘドニズムに彩られるようになった。

王宮のライフスタイルが王国の民のお手本になるのは常識と考えて良いだろう。それほど
までに王宮が潤っていれば、繁栄のしぶきが王国の民に降りそそがないはずもない。一般
庶民の経済状況が好転することによって、庶民は金で買える食の快楽を追い求めるように
なった。だから伝統と化した外食の習慣はソロに顕著に出現し、ヨグヤではほとんど見ら
れないということなのである。


ヨグヤ・ソロ間のもうひとつの大きな差異は、料理の甘さが違っていることだ。ジャワ料
理は甘いとたいていの非ジャワ人は言う。ジャワ料理が甘いのは、ヤシ砂糖が有り余るほ
ど作られるからだ。その典型例がkecap manisだろう。ジャワ人なくしてケチャップマニ
スはこの地上に出現しなかったのではないかと言われているくらいだ。

一説によれば、華人が東南アジアに通商のために訪れはじめたころ、かれらは塩味の中国
醤油をバーター品のひとつとして持って来た。ジャワ島にやってきたとき、港での取引で
醤油はまったく人気がなく、バーター品の価値がないことが明らかになった。華人はジャ
ワ人の食を調査し、ヤシ砂糖がありとあらゆる料理に使われていることを発見した。

華人の目がきらめいた。華人はジャワ人からヤシ砂糖を買い、ヤシ砂糖を醤油の中に放り
込んだのである。それが、ケチャップマニスが誕生した瞬間だったという話だ。


ジャワの伝統料理の中で、ヤシ砂糖を使わないものは2割程度しかないと言われている。
もちろん料理人のセンス次第であり、露骨に甘い料理から隠し味の甘さまで千差万別では
あるのだが。

ヨグヤ人が作るグドゥッは甘い料理のシンボルになっている。グドゥッの色を見てみれば
よい。ヤシ砂糖で煮込まれたような茶色いものばかりが目に付くではないか。添えられて
いる殻付き鶏卵ですら、ヤシ砂糖の茶色い色になっている。ヨグヤのある人気グドゥッ食
堂の料理人は、2百個の鶏卵を煮込むのにヤシ砂糖1キロを使う。塩は手のひら2つかみ
分だ。ゴリ25キロにヤシ砂糖を4キロ、その他いろいろ含めて一日にヤシ砂糖を12キ
ロ消費すると語っている。[ 続く ]