「ヌサンタラの馬(終)」(2021年11月19日)

ヨグヤカルタにもたくさんのベチャがいる。ヨグヤにおけるベチャの歴史は、華人頭家オ
ン・コーシューによって1940年に始まった。かれは自分でベチャを組み立て、妻が商
売物のコメを配達するための便宜を図った。コ―シューはアヘン吸引所を四つ持って手広
く商売を行うプチナンの名士だった。中国からやってきた移住者の面倒を見、新客が自分
の仕事を開始するまで飯を食わせてやった。

そのうちにベチャによるタクシー商売が始まり、ベチャの数は増加した。ヨグヤのプチナ
ンにベチャ事業の元締めが5軒できた。その中にはスマランから百台のベチャを持ってヨ
グヤに進出して来た者も含まれている。

ヨグヤカルタには、他にもたくさんのベチャ生産者がいる。その中で大手として知られて
いるSinar Lautのオーナーは、ヨグヤにベチャが入って来たのは日本軍政期であり、日本
からスマランに入って普及した後、ヨグヤやソロなどに拡散したと語っている記事が20
06年のコンパス紙に掲載されており、それを語ったオーナーの年齢はそのとき76歳だ
った。

オン・コーシューが先鞭をつけたベチャは乗客運送用三輪自転車でなかったことに注目す
べきだろう。シナールラウッのオーナーは乗客運送用ベチャについての話をしているので
ある。


1950年代にヨグヤに乗客運送用ベチャ製造販売者が三軒出現した。ベチャの車輪はゴ
ムタイヤを履いていたが、空気タイヤでなくゴムの塊だった。今のベチャの屋根の形は幌
型になっているが、その当時のものは箱型だった。

そのころヨグヤでは、死者を埋葬するために遺体をベチャで運んだらしい。救急車は希少
価値の時代だったから、呼んだらすぐに来てくれるというものでない。イスラムでは、死
者はできる限り早く埋葬することが定められており、没したその日のうちに埋葬を済ませ
てしまうのが一応の常識になっている。おまけに日没後の埋葬はしない方が良いという判
断が出されているために、たいていがその日、まだ陽があるうちに埋葬まで終わらせてし
まうのが普通だ。遺体をベチャに乗せるときは、遺体にペチをかぶらせ、サングラスをか
け、生きている乗客のような体裁でベチャに乗せたそうだ。

オルラ時代の終わりごろに、南アフリカからベチャ5千台の注文が舞い込んだことがある。
ヨグヤの生産者がその数を用意できる前にオルラレジームが終焉し、注文はご破算になっ
た。なにしろ、シナールラウッですら生産台数は月10台だったのだから。


というのが、乗客運送用としてのベチャの歴史だ。だが、ヨグヤの話にもあるように、貨
物運送用としてのベチャはもっと前からその歴史が始まっていたらしい。インドネシア語
資料のいくつかに、ベチャは20世紀に入ってから華人頭家たちが広く使い始めたという
記述が見られる。

それ以前に頭家たちは、商品の仕入れや配達のために大量の貨物を載せた荷車を馬に引か
せていた。かれらはそれをベチャ(馬車)と呼んでいたはずだ。そして自転車時代の幕開
けがやってきて、馬を使わない三輪荷車のメリットがクローズアップされた。廉い賃金で
使っている従業員の誰でもよいから、その自転車を漕がせて荷物を運べばよいだけだ。飼
育に金がかかる馬を自分で持ったり、他人から借りたりする必要がない。頭家たちは三輪
荷車に飛びついたのではあるまいか。

ひょっとしたら、頭家たちは馬の引く荷車が三輪荷車に代わったあとも、その三輪荷車の
ことを馬車と呼んでいたかもしれない。三輪荷車を華人層がベチャと呼んでいたために、
三輪荷車が乗客運送用に機能転換されたとき、プリブミは自然とそれをベチャと呼んだの
ではないだろうか、というのがベチャの語源に関するわたしの推測だ。

馬はバタヴィアの街から自然淘汰されて駆逐者に取って代わられ、馬の名を引き継いだベ
チャもジャカルタの街から追い出される運命にあった。奇妙な符合かもしれない。[ 完 ]