「椅子の二面性」(2021年11月23日)

ライター: 雑誌Papirus運営者、スラカルタ在住、サエフル・アヒヤル
ソース: 2014年9月6日付けコンパス紙 "Kelas dalam Budaya Kursi"

言うまでもなく椅子は伝統の一部を成すものであり、ほとんど世界中で人間の日常生活の
中に深く溶け込んだひとつの文化産物になっている。しかしながら椅子は、人間が腰を下
ろし、上半身はフォーマルで下半身はインフォーマルという半直立姿勢でリラックスする
場所として機能するだけではないのだ。

椅子はまた、言うまでもなく、人間が働く必要性を持つかぎり上半身を支えるためにその
尻を置く場所としての需要がなくなることの決してない商品でもあるのである。

いつから椅子に座る習慣がインドネシアで始まったのだろうか。この民族の一般大衆の暮
らしの中では昔から、lesehanという床に座る形式が普通だった。とりわけ、集団で座る
場合はレセハンが日常生活の中で欠かせないものになっていた。

一部のインドネシア人にとって低い位置で座ることは、机を前にした椅子(大きかろうが
小さかろうが)に座るのに比べてより快適であり、リラックスでき、平等さを感じること
ができた。

ジャワの王たちは、特別の形と装飾に彩られた、きわめて高い社会ステータスを持ってい
るpadmasana, dhampar, singasanaなどと呼ばれる椅子に座った。シ~ガサナという言葉が
しばしば王を指して使われたのは不思議なことでない。一方神々は、インドネシアのいく
つかのチャンディのレリーフに見られるように、たいていパッマサナの上にあぐらで座り、
両手を膝の上で握っていた。

文化の産物である椅子は、所有者あるいはそこに座る人物にとっての社会階層や階級を示
すステータスシンボルにもなったのである。

< 種々の椅子 >
シャイレンドラ時代に椅子は、王や貴族の命令で都や町のはずれに住む木工師たちが作っ
た。元々ジャワの民衆は、レセハン、あるいはしゃがんだり、また脚を投げ出して座るの
に慣れていた。一般大衆がレセハン方式を採用したのは、それが市民同士の間で相互尊重
にもとづく他者との親密な関係を構築することを可能にしたからだ。

一方、伝統の中で椅子は庶民と王の違い、支配者と被支配者の区別を示すシンボルになっ
た。神の代理者であるジャワの王たちは権力のシンボルとして、それを示すパッマサナの
椅子を用い、それに対して民衆はdingklikに安心感を抱いて心地よく座った。ディンクリ
ッとはジャワでjodhok、スンダでjojodog、ムラユはbangku、ブタウィでjengkokと呼ばれ
る、何の権威も政治的合法性も持たない、風呂いすのような形状のものだ。

素朴な椅子であるディンクリッはたいてい10〜30センチのサイズで脚が二本の立方体
をしており、ジャワ人は台所仕事、パサルでの物売り、工芸品制作、などの作業をそれに
座って行うのが普通だった。

ダッラン・イスカン国有事業体相は、国有事業体経営者たちが執務室や会議室で座ってい
る椅子を見て不愉快さを表明した。背もたれは肩より高く、サイズは巨大で、クッション
性に富み、どのレベルの部下よりも贅沢な作りをしていた。そのような椅子の使用は椅子
を権威のシンボルに位置付ける封建主義思想にもとづいているのだ。権威主義的で、部下
を虐げさえする、あの封建主義に。

国有事業体ばかりか、たくさんの政府機関がそのような思考法にもとづいた「椅子」のコ
ンセプトを用いている。ダッランにとってそのようなコンセプトは、誠実さ・フェアネス
・プロフェッショナリズムを求めるモダンマネージメントに合致しないものだった。「タ
バコの吸い殻の散らばる封建的椅子」と題する論説の中でダッランは、「一企業にとって
そのような会議室はまったく不適切なものだ。封建文化を映し出しているだけの、きわめ
て非企業的なものだ。」と書いている。

< アイデンティティの椅子 >
最終的に椅子は、ひとつのアイデンティティを成すものになった。椅子とその所有者/使
用者の一体性が出現したことは否定できるものでない。椅子はもはや、ひとつの物体でも
なく、単なる機能ツールでもなく、実存性を示すものになったのだ。Babad Krama Dalem 
Sinuwun Paku Buwono IX と題する書物を読めば、ガンブ詩句12第6連に次の言葉を見
出すことができる。

Lenggah ing bangsal munggu
Aneng ing dhampar rinengga murub
Tuwan residen asisten samya neng kursi
麗しき殿堂に座す
輝く装飾に彩られた玉座の上
レシデン閣下、補佐官、誰もが椅子に座っている

その叙述が物語っているのは、王は必ず黄金の玉座に着き、王と会見する客人は全員が一
律の高さになっている椅子に座らなければならないということだ。椅子は終局的に、政治
・経済・宗教・学術等々の諸分野のいずれであれ、権力構造内におけるポジションを示す
ものになったのである。古い昔から、今日にいたるまで。

その一方でわれわれは相変わらず、座り、会話し、読み、書き、思索するための場として
椅子を必要としている。それらの行為は神に謝すべき人間の本性のひとつであり、神の子
であるわれわれ人間が自然にふるまう場としての座がそれなのである。

昨今の総選挙と名付けられた民主主義の祭典の中で起こっているように、どんな形態であ
るにせよ椅子を権力を得るための橋、さらには目標としか見なさないことが、われわれを
誹謗中傷や他者を傷付ける様々な行為に仕向けているのである。それに比べれば、人間の
本性を支えるための椅子の方がいかに優れているかは言うまでもあるまい。