「ジャワ人は大酒呑み」(2021年11月24日)

ライター: クドゥスのパラディグマ学院研究者、アディ・プルノモ
ソース: 2012年11月8日付けコンパス紙 "Riwayat Tanah Para Pemabuk"

酔っぱらう習慣は、この国で長い歴史を持っている。たいていが、悲劇的で、陰惨で、破
滅的できごとに関わっている。酔っぱらいの元凶であるアルコール飲料は特別な飲み物で
あり、宴に欠かせないものだったことも確かだ。そして酔うことは一種の定例アジェンダ
になり、種々の祝いの中で無くてならないものになった。戦争の勝利、賭博の勝ち、ある
いは単なる王族の祝宴であったにせよ。

ふらつき、ぼやき、不服や怨言を吐き、罵倒し毒づくのが、個人や集団の酔っ払いに出現
する副作用だ。中でも、音楽団や女性歌手、今ならさしづめロックやダンドゥッだろうが、
そんなものの伴奏があればレベルは高まる。人間に何かを忘れさせるには、酔いが最強で
また最も楽しい。何を忘れさせるかだって?その時にその酔っ払いが忘れたいと思ってい
るものごとだ。

糖を生み出すさまざまな素材がヌサンタラにあったことが、種々のアルコール飲料を住民
に作り出させることを可能にした。それが酔っ払う伝統の発端になった。ココナツやロン
タルヤシからトゥアッ、アレンヤシから蒸留酒アラッ、そしてタぺに至るまで、マジャパ
ヒッ時代の宴会には必ずすべてが勢ぞろいしたとヌガラクルタガマの書は物語っている。
消費されたアルコール飲料の量が、その宴会が盛会だったかどうか、そしてまた参会者の
社会階層の高低を計る物差しにもされた。

そのような慣習によって、この国にあったさまざまな集団の評判が形成されたようだ。ハ
ントゥア物語は前イスラム期のジャワ人が底なしの酒飲みだったと評している。米から作
られた飲み物は宴の中で、参会者の親睦を結ぶ媒体になった。日常生活でもかれらはシリ
の葉・ピナンの実・貝殻の粉末(kapur)を混ぜたものを噛んでいる。それは少量のアル
コールを含んでいて、人間の社会交際を円滑にしている。常習性を持つ、もっと強いアル
コール飲料はそれよりはるかに高価だ。

< 酔いと神がかり >
人間を酔わせる飲み物は、それが生む快感と心理的生理的効果によって大いなる人気を博
した。動悸の速まりがもたらすセンセーション、自信や勇気が湧き起こり、思い出したく
ないものを忘れさせてくれる。それどころか人間を中毒にして常習癖を引き起こす。

その忘れさせる効果がいくつかの種族に神がかり現象を起こさせた。呪術師はその刺激に
よって、神秘的儀式の中で超自然界との交信を行うようになった。酔うとはすなわち、ト
ランスに陥ることでもある。

呪術師が祖先と交信する能力を持っていると見なされたとき、そのトランス状態が時にス
ピリチャルな、更に宗教的な意義を持たされたとアンソニー・リードは書いている。ハン
チントンとメッカーフは、呪術師が死者と交信するように、死体から魂が脱け出すことと
米の発酵作用でアラッができることの間のつながりが意識下に形成されていると説いてい
る。

そのような神聖さのために古代社会は酔うことを正当な行為として受け入れたばかりか、
永遠の伝統あるいは社会習慣として承認した。ひとつのコミュニティが構成員間の結びつ
きを高めたり維持しようとしたりするとき、アルコール飲料は大量消費されてしかるべき
ものとなったのである。

新しい宗教が入って来て飲酒が禁止されたとき、それが理解され受け入れられるまでに長
い歳月がかかった。しかし最終的にそれは成功しなかったのだ。コロニアル時代が訪れ、
植民地支配階層は自分たちが飲んでいる、もっと激しく酔わせるアルコール飲料をプリブ
ミに一緒に飲むように誘った。宗教が定める飲酒禁止の実現はおぼつかないものになった。

< 酔っぱらいの没落 >
ハントゥア物語の中に、酔っ払いたちの悪徳が描かれている。マジャパヒッ軍の捕虜にな
ったハントゥアは、勝利の祝宴で酔いしれた軍兵の目を盗んで逃げだすことができたのだ。
勇猛で鬼のような軍勢が、いやひとつの文明が「酔い」に屈服したありさまを、それはわ
れわれに教えてくれる。

コロニアル時代のプリブミ酔っ払いのふるまいは、太古の先祖たちよりはるかにみっとも
ないものだった。アルコールやアヘンで酔うことは、愉しみのために欲望を満たすこと、
気掛かりな問題を忘れること、その常習癖そのものを満たしてやることが目的だったので
ある。

ピーター・キャリーは、民衆は徴税請負華人からアヘンを買ったと述べている。かれらは
植民地統治下の農園で働いて得た薄給でアヘンを買った。残った金は賭博のテーブルで消
えて行った。賭博のテーブルで勝てば、アヘンを買い、アルコール飲料を買い、女を買っ
て散財した。そんな行為は今この瞬間にも続けられている。この国の民衆が出稼ぎに渡っ
た隣国の農園でも、似たようなことが行われているのだ。

酔いは生と苦難と死の間に緊張を生む源泉にもなっている。酔いは、慰安・嫌な状況や記
憶からの逃避・種々の状況下に社会的な夢を生む空想の製造マシーンなどになるアヘンな
のである。そしてたった一晩のお愉しみのために、一カ月の収入が使い果たされる。

その状態が大儲けを生むのだと昔のコロニアリストたちは考えた。今でも同じかもしれな
い。今の時代であれば、コロニアリストの姿などどこにも見当たらないというのに。酔っ
ているから見えないのだろうか?そう、酔っているからだ。