「ジャワ島の料理(16)」(2021年11月25日)

1656年にマタラム王アマンクラッAmangkurat1世が開いた例年開催される饗宴にVO
Cが派遣したレイクロフ・ファン・フンスRijklof van Goensは王の食卓を見て驚いた。
牛肉・鶏肉・魚・野菜の焼いたもの・揚げたもの・蒸したものなどが所せましと並んでい
たのだ。王領内各地の領主が各地元料理の傑作を王に賞味してもらおうとして、地元料理
人を伴って王都に集まって来ていたのである。

そのような特別の宴会だけでなく、王の食卓はいつも各地方の美味い物であふれていた。
各地の領主は王に目をかけてもらうために、王の舌を標的にした。マタラム王宮が、そし
て分裂後の各王宮が持った食の世界は、そのようにして洗練され、熟成されていった。


ジャワでは古い王朝の時代からperdikanという制度が行われていた。プルディカンが与え
られた村は税が免除される代わりに、王が望む産物や製品を王宮に貢納する義務を負わさ
れた。たとえばヨグヤカルタのガディン村はヨグヤ王宮のヤシ油をまかなった。品質の良
いヤシ砂糖、あるいはドリアンやドゥクなどを産する村々はプルディカン村にされた。

領内で得られる最高品質の素材が王宮に集まり、それらは王宮内にある四つの大厨房で料
理された。その四つとは、ハムンクブウォノ7世以来調理の腕を誇ったゴンドクスマン、
ヨーロッパ料理に強いプラベヨ、そして王宮に勤める宮僕たちの食事を作るクブレンとス
クランゲンだ。

それに加えて、王の妃たちが王の愛をわが身に導こうとして、美味な料理を毎日、王に進
上した。王の妃は、古い時代には十人以上いた時もある。かの女たちも王に目をかけても
らおうとして、王の舌を標的にしたのである。ハムンクブウォノ9世の時代には、ピンタ
カン、ウィディヤニンルマン、ハストゥンカランなどの厨房から王の食卓に料理が届けら
れた。PintakanとはKanjeng Raden Ayu Pintaka Purnamaの個人厨房、Widyaningrumanは
KRAy Widyaningrumの、HastunkaranはKRAy Hastungkaraの、それぞれ個人の厨房であって、
王宮の厨房ではない。

ハムンクブウォノ9世はウィディヤニンルマンから届けられたpuding kabinet, sayur 
bobor, bacemanを好まれ、ハストゥンカランの料理はwedusan, gulai kambing, panekuk, 
lotis buah、ピンタカンのものはbebek zwaar zuur, puding angin, kroket, urip-urip 
leleをお好みになったそうだ。


王宮がいつも豊かに繁栄する姿を示していたわけでもない。経済的に厳しい時代に入れば、
王宮建物の修理すら思うに任せなくなり、あちこちが古びて雨漏りのする宮殿で王族一同
がわびしい日々を送らなければならないことも起こった。

1816年、スラカルタのレシデンであり、ヨグヤをも監督下に置いたナハイス・ファン
・ブルフストNahuys van Burgstが王の領地と貴族・臣下の料地を西洋人に貸し、農園を
営ませてヨーロッパ市場向け商品作物を栽培させる方針を開始し、1821年までにスラ
カルタとヨグヤカルタの土地1,281jungが百人を超えるヨーロッパ人に貸し出された。
1ジュンはおよそ0.0283平方キロメートル。

王宮や貴族たちは自領から上がる税よりはるかに巨額の借地料を得て大いに潤った。とこ
ろが1823年になってファン・デル・カペレン第42代総督が王国領土の借地を禁止し
たのである。理由は、民衆の福祉向上に寄与しないというものだった。

西洋人農園主たちは一斉に損害賠償を地主である王と貴族たちに要求した。状況が平静に
戻ったとき、王と貴族たちは巨額の借金に首まで浸かっていたのだった。巨額の負債を抱
えた貴族たちの多くは、ディポヌゴロの反乱軍に投じた。1825〜1830年のディポ
ヌゴロ戦争は20万人のジャワ人の生命を奪い、その一方で勝利者の東インド植民地政庁
を破産させた。ナポレオン戦争の後遺症とベルギー独立戦争で首の回らないオランダ本国
は、なんらなす術を持たなかった。

ファン・デン・ボシュの栽培制度がその救世主として登場した。ジャワ島のすべての土地
にヨーロッパ市場向け商品作物を栽培させ、その輸出を経済再建の柱にする構想だ。オラ
ンダ本国と東インド植民地を生き返らせるには、それしかない。[ 続く ]