「ジャワ島の料理(17)」(2021年11月26日)

だが、ファン・デン・ボシュはディポヌゴロ戦争の轍を踏みたくなかった。スラカルタと
ヨグヤカルタの土地は、栽培制度の対象から除外したのである。王国側がその機会を利し
て、農園用の借地を再開した。こんどの黄金ラッシュならぬ砂糖ラッシュは長期間にわた
って継続し、王国を大いに富ませることになった。


パヌンバハン・セノパティを開祖とするマタラム王国は1584年に発足し、1755年
のギヤンティ協定で幕を閉じた。ギヤンティ協定はマタラム王国の継承者、スラカルタの
ススフナン王家とヨグヤカルタのスルタン王家のふたつを生んだ。

更にスラカルタでは1757年にサラティガ協定によってマンクヌゴロ王家が独立し、ヨ
グヤカルタでも1812年にパクアラム王家が分離した。こうしてスラカルタとヨグヤカ
ルタにはそれぞれが領地を持つ四つの王家が並立することになった。

砂糖ラッシュはスナンパクブウォノ9世(在位1861−1893)、スルタンハムンク
ブウォノ7世(在位1877−1921)、マンクヌゴロ4世(在位1853−1881)
、パクアラム5世(在位1878−1900)を砂糖長者にした。

パクブウォノ10世は9世の遺した財産のおかげでジャワ史上最高の金持ち王になり、植
民地高官オランダ人たちを差し置いて東インド最初の四輪自動車オーナーになった。ハム
ンクブウォノ7世が王位に就いたとき、王宮は貧困のさ中にあえいでおり、古びた建物を
改装することさえままならず、随所に雨漏りが起こっていた。それが突然大金持ちになり、
わが世の春を謳歌するようになった。ハムンクブウォノ8世は7世の築いた財産を頼りに、
ヨーロッパの最新型諸製品を買い漁ったそうだ。

マンクヌゴロ4世は土地を貸して地代収入を得ることに飽き足らず、自ら農園を興して砂
糖生産者のひとりになった。1861年にColo Madu製糖工場が作られ、1862年から
1871年までの間に貴族・家臣に与えた料地をすべて取り上げて自分の砂糖農園に変え
た。貴族・家臣たちはその代償に給料を与えられるようになった。

チョロマドゥのサトウキビ農園と製糖工場を稼働させ管理させるために、何人ものヨーロ
ッパ人が雇われた。その成功に喜んだマンクヌゴロ4世は1871年に、第二の製糖工場
タシッマドゥTasik Maduを設けた。パクアラム5世はマンクヌゴロ4世の成功例に触発さ
れて自分も砂糖事業に参入し、セウガルールSewu Galur製糖工場を建てた。


1870年代にジャワ王宮の西洋化が顕著に進んだ。農園借地料や製糖事業がその原資を
提供し、その金でヨーロッパ風ライフスタイルを買ったのである。王たちは西洋風の宴会
を頻繁に開くようになり、西洋スタイルの飲食が会場で当たり前のものになった。ヨーロ
ッパ料理はもちろん、雇われたヨーロッパ人シェフの手になるものだ。王宮の厨房はかれ
らから西洋料理を学んだ。

こうしてbistik jawaとsalatが王宮料理の仲間入りをし、スナンパクブウォノ9世の好物
になった。ビスティッはオランダ語のbiefstukに由来しており、オランダ風の肉を焼いた
ものに濃厚なソースがかかっている。サラッはサラダだ。

スルタンハムンクブウォノ7世はroti jokを好んだ。これはヨーロッパ人の訪問客がひっ
きりなしに訪れるために、スルタンがジャワ風ヨーロッパ料理を工夫せよと厨房に命じた
ことから生まれたものだそうだ。料理と言っても軽食であり、またロティと言ってもパン
でない。

ロティジョッはまず、米粉・小麦粉・イースト・卵・塩・砂糖を混ぜたものに、少しずつ
ココナツミルクを混ぜて滑らかにする。それを30分ほど置いて膨らませる。そこに溶け
たバターを練り込んで30分ほど置く。それをkue lumpurの焼き型に入れて、直火で焼く
と出来上がる。このロティジョッはsemur ayamと一緒に食べるのが最高だそうで、それが
標準レシピになっている。[ 続く ]