「誰がジャワを定義付けたのか(後)」(2021年11月26日)

絵のないラヤンワチャンの物語は、子供たち(読者あるいは聴者)に容易に理解をもたら
すと同時に、かれらが普段から体験している日常のできごとを想像させ得るスタイルとア
プローチを持っていた。その物語を書いた者は、全然ジャワの血を引かない、ジャワとは
縁もゆかりもない人間だったというのに。読者もジャワ文化の筋道に合致した真理を見出
して、うなずかずにはいられないだろう。

1914年にジャワの小学生たちは、バタヴィアで植民地政庁が出版したC Poensenの著
作Ontjen-Ontjen: Javaansch Leesboekを手にした。このラテン文字で書かれたジャワ語
の読本でも、同じコンセプトによる水田の話が語られている。村落部での暮らしが物語ら
れているのである。プンセンはジャワを静的な村落、もっと言うなら鈍重な環境、にイメ
ージ付けようとした印象がある。ところが実態は、ジャワも継続的に変化する人間社会の
ひとつであり、且つ外部からもたらされた種々のものごとを受け入れて自家薬籠中の物に
して来た、進歩的な文化であるというのに。

中でも、子供たちの様子を含めて村落部を執拗にからみつかせるジャワのイメージは、7
ページに出現する。水牛と一緒に行動するジャワの子供たちの話がそこにある。

Ana botjah loro, aran si-Sela lan si-Mardjan. Dene si-Sela ikoe botjah pintar 
banget. Anoedjoe ing sawidji dina botjah loro maoe pada angon kebo, sarta leren 
ing sangisoring oewit pilang...
子供がふたりいた。スロとマリジャンだ。スロはとても利口な子だ。ふたりは一日中水牛
と一緒だ。そしてピランの樹の下で休息する。

pintar bangetの句に注意したまえ。angon keboと対になっているではないか。それはオ
ールドファッションのpintarなのであり、つまりは静的なpintarなのである。


絵のないそれら三冊の本は、ジャワの子供向け書物に影響を与えてきた。テーマと語法は
オランダ人教師や学者の文筆にとっての参照手本にされた。続出した著作者たちは多分、
コロニアルジャワのニュアンス濃い教育を受けたことがあるか、あるいはオランダ人学者
の生徒だった人間だろう。読本の著作は言うまでもなく、カリキュラム・コロニアル支配
・時代の流れに準じたものになった。

植民地政庁が発行したジャワ語の、しかしラテン文字で書かれた読本の影響は、ジャワに
おける読本がコロニアルの呪法から脱け出るのに容易でなかった歴史に示されている。そ
れは19世紀末から20世紀中葉、つまり1950年代まで続いたのである。

ジャワでは書物や読本が、ジャワの定義付けを学校で子供たちに与える役割を担った。拒
否し、批判し、更には反論する能力もまだなく、それどころか、そんな立場でもない時期
の子供たちに。コロニアルの文字文明の罠をくぐって、この民族の各ジェネレーションは
そんな状況の中から起ち上がって来たのである。今日に至るまでも。[ 完 ]