「ヌサンタラの馬車(3)」(2021年12月01日)

19世紀半ばごろ、東インド植民地政庁に土木技師として奉職するオランダ人デーレマン
Charles Theodore Deelemanが自分の仕事のために馬車を作った。1823年にアムステ
ルダムに生まれ、1884年にバタヴィアで没したかれは石版工としても活躍し、当時の
バタヴィアの風景画をいくつか残している。

かれはバタヴィアに自分の鉄工ワークショップを持ち、バタヴィアで容易に手に入る素材
で馬車を作った。つまり東インド植民地製の簡易馬車ということになるだろう。

かれが作った馬車はオランダ人の間で評判が良かった。オランダ人たちはデーレマンの馬
車をdos-a-dosと呼んだそうだ。フランス語ドゥアドゥは背中合わせという意味だ。多分
デーレマン作の馬車は、幅広い座席にふたりが馬車の前方を見る形で座り、もうふたりが
馬車の後部に後ろ向きで座って、四人の乗客が背中合わせになる形式になっていたのでは
あるまいか。

インドネシアにある馬車の種類のひとつにサドsadoというものがあり、デーレマンが制作
したと思われる馬車の形になっている。その証拠に、サドの語源がフランス語dos-a-dos
だと説明されているのだが、19世紀半ばにバタヴィアにいたオランダ人たちはそのフラ
ンス語をドサドスと発音していたのだろうか?


デーレマンの馬車をプリブミは制作者の名前を取ってdelmanと呼んだ。そしてそのデルマ
ンがヌサンタラの各地で作られるようになり、各地方でさまざまなバリエーションが試み
られ、さらに地方ごとに異なる名称で呼ばれた。

だからその歴史を参照するかぎり、植民地時代以降に作られたヌサンタラの馬車はすべて
デルマンに由来していると言うことができ、地方別の名称で呼ばれているさまざまな形態
のものが一律にデルマンと呼ばれてもおかしくない要素を含んでいる。

反対に、デルマンから派生したさまざまな馬車が地方ごとにさまざまな名称を持つように
なったことに関連して、そのどの名称を使おうが話者が意図しているのは馬車のことであ
り、特定の馬車の種類を意図しているのでなくて包括カテゴリーとしての馬車全般を指す
一般名称として使われているのではないかという一種の混乱をわたしは感じている。

かてて加えて、デルマンはデルマンであたかも独自の形態と仕様を持っており、枝分かれ
したその子孫と同列で並立しているかのような説明もなされているため、奇々怪々という
印象もぬぐえない。


[delman] 
KBBIにはkereta beroda dua yang ditarik kuda; dokarと語義付けされている。グー
グルイメージで検索して見ると、馬一頭が引く二輪または四輪の屋根付き馬車の画像がほ
とんどだ。

デルマンは最初に作られて以来、同じデザインで作られ続けたとインドネシア語ウィキに
書かれているものの、delmanと記されている画像を見ると、デザインは種々雑多になって
いるように見える。

そこで述べられているデルマンとはデーレマンが最初に作ったサド型のもののことなのだ
ろうか?確かに植民地時代のバタヴィアで使われていたのはもっぱらサドであり、客が背
中合わせで座るタイプのものだった。ところが現代ジャカルタで使われているものはデル
マンと呼ばれていてサドでなく、しかも背中合わせに座る形になっていない。


植民地時代にデルマンは町から町への長距離運送に使われた。1885年にフォーブズ氏
はデルマンを雇って、ボゴールからバンドンまで13時間かけて旅をした。かれはそのチ
ャーターに16フルデンを支払ったそうだ。

しかしそのうちに自動車がデルマンの果たしていた長距離運送の役割を奪ってしまった。
今でもジャカルタ近辺で走っているデルマンがいるにはいるが、住宅地とパサルや学校間、
あるいは行楽地での観光乗物としての近距離運送しか行っていない。そして時おりは、ブ
タウィ式の子供の割礼祝いや結婚式の行列にチャーターされることもある。

具体的に言うなら、ラグナン動物園・タマンリアスナヤン・アンチョルドリームパーク・
モナス公園などといった都民の行楽先や、都心からちょっと離れたチルドゥッ・クバヨラ
ンラマ市場・パルメラ市場などがそうだった。[ 続く ]