「ジャワ島の料理(21)」(2021年12月02日)

しかしこの種の文化融合が受け入れ側のポジティブな精神だけで行われたなどと断言でき
るものではない。アンドレアス・マルヨト氏も別の論説の中でその点に触れている。文化
受容には往々にして、より高いと見られる文化を奉じて自らを仲間内の先進者に位置付け
ようとする精神構造が発生するのが人間のユニバーサルな性だからである。わたしはその
精神構造を文化宗主国思想と呼んでいる。

宗主国に征服されて従者の位置に落とされた被征服者の中に、宗主国が持っているもので
あるがゆえに価値ある物と位置付け、その価値を主体的に実践しようとする人間が出現す
る。日本語で○○かぶれと呼ばれるものがそれだ。食べ物について言うなら、本当に自分
の嗜好に合致して美味しさを堪能しているのでなく、それを食べている自分の姿を世間に
示すこと、そして自分はI am what I eatであるという観念に酔うこと、の方が本人によ
り大きな意味をもたらしているケースだろう。


たとえば、オルラ期には起こり得なかった西洋フライドチキンやハンバーガーの店がオル
バ期になってからインドネシアにオープンした。KFCの一号店は1979年に南ジャカ
ルタ市ムラワイ通りのグラエルスパーマーケット内に開店した。マクドナルドハンバーガ
ーの一号店は1991年に中央ジャカルタ市タムリン通りのサリナデパート内に開店した。
いずれも中流層の平常ライフスタイルの中では値段と価値のアンバランスが感じられ、そ
の種の新しい物に飛びつけるアッパーミドルから上のひとびとだけが消費者になっていた
から、たいてい店内は閑散としていたようだ。

それらの元祖ブランドの店に中流層が誰でも気軽に足を踏み入れるようになるころは、ロ
ーカル資本ローカル技術のフランチャイズチェーンからカキリマ屋台までがフライドチキ
ンとブルグルburgerを扱って国民食の趣を呈するくらいに層が厚くなった時期であり、家
の近くで米国文化を味わおうとするひとびとは名前がもたらす催眠術にかかっていたよう
なもので、何のことはない、かれらの舌は英語の名を借りたローカルの味覚を味わってい
たと言って過言でないように思えるのだが、それさえも、文化融合と呼んで呼べなくもな
い・・・

そのころには、中部ジャワの地方都市ウオノソボの住民ですら、家からほど近い作り売り
屋台でフライドチキンもブルグルも買うことができた。そしてかれらはその味をモダンフ
ァーストフードの味と考えて納得した。


もっと明白な現象は、1980〜90年代を通して、それらのファーストフード店内で子
供の誕生パーティが頻繁に催されたことである。円錐帽をかぶり、風船を手にし、ピエロ
や手品師が場を盛り上げてくれるパーティに友人たちを招いて一緒に楽しむ。時代の先端
を彩るファーストフードと共に催されるパーティを招く側も招かれる側もモダンなライフ
スタイルと考えた。ところが2000年代に入ってから、その傾向は沈静化して行ったの
である。

昨今では、子供のためであれ大人のためであれ、自宅でパーティを開くひとの方が増えて
いる。複数の来客を収容でき、客たちに見せられるだけの住居を持てるミドルクラスが増
えたことがその傾向を生んだのは間違いないだろうが、西洋風ファーストフードに結びつ
いたモダンライフスタイルにはもはや価値がなくなったことがその裏側に貼り付いている
ように思える。

そんな自宅パーティで客に供される食べ物には、プチュルpecelやタぺtapeなどのような
ヌサンタラの伝統料理への回帰が見られる。バーガー・フライドチキン・ピザなどの西洋
料理がモダンさを象徴した時代が過ぎ去ったのは、それらがインドネシア社会の中で一般
化したことで生じた飽きのためだったのかどうか?ソフィスティケートされたヌサンタラ
伝統料理への回帰が強まったことと、それはどのように関わっているのだろうか?あのこ
ろ、ひとびとは美味い物を食べたかったのだろうか、それともモダンな物を食べたかった
だけなのだろうか?[ 続く ]