「ヌサンタラの馬車(6)」(2021年12月06日) そんなブタウィの伝統デルマン業も、コロナ病禍のために息絶え絶えになっている。御者 が馬の最低限の食費すら確保できなくなってしまったのだから、馬は栄養不良に陥り、病 気に襲われ、病と飢餓で死んでいくことになる。家業を諦めた御者の多くは購入希望者に 馬を廉く手放したり、あるいは食肉用として屠殺場に売り渡した。 動物保護民間団体ジャカルタアニマルエイドネットワークのデータによれば、2020年 1月のジャカルタの馬の数は325頭で、前年の740頭から激減した。減少は継続し、 2021年8月には214頭になっている。 この団体は国内外の動物愛好家から寄金を募り、馬の飼料を購入してジャカルタ在住のデ ルマンの引き馬オーナーに配布する援助を行った。7月に飼料4トンを購入し、一週間に わたって配布したあと、オーストラリアの動物保護団体からの援助が得られて米ぬか21. 5トンや他の食糧保健資材などが用意され、一カ月間それが配布された。 だがそれが根本解決にならないのは明らかであり、たとえベチャが作為的なものであった にせよ、デルマンも同じ運命をたどることになりそうだ。 [sado] KBBIにはkereta beroda dua yang ditarik oleh kuda; dokarと語義が説明されてい る。インドネシア語ウィキの[sado]の項目にはsebutan orang Betawi untuk delmanと記 されているが、[Sado (kereta kuda)]の項目にはその説明がなく、1925年のメダンで 写された写真が掲載されていて、その車体は間違いなく乗客が「背中合わせ」で乗る様式 になっている。 画像検索すると、一頭立て二輪の屋根付き馬車で、たいてい「背中合わせ」タイプのもの が表示される。しかしそうでないものも混じっていて、サドという名称が「背中合わせ」 を忠実に反映している使われ方と、元祖デーレマンの馬車が生んだバリエーションとして の用法が混在しているように思われる。 元祖デーレマンの背中合わせ馬車であるサドは植民地時代にバタヴィアで一世を風靡した から、ブタウィ人がデルマン系馬車をサドと呼んだという説明は当たっているだろうが、 上で挙げた1925年のメダンの写真や、西スマトラのブキッティンギで幼少期を過ごし たインドネシア共和国初代副大統領ブン・ハッタの博物館に蔵されている、少年モハンマ ッ・ハッタを小学校に送迎したサドなど、スマトラ島にも背中合わせサドがあって、しか もちゃんとサドと呼ばれていたのだから、デルマンをブタウィ人がサドと呼んだという説 明は舌足らずな気がしないでもない。 あるインドネシア語記事には、デーレマンが馬車を自作したのは1845年のことであり、 その馬車が商業生産されるようになってバンドンのブラガ通りにあるFima Hallemanの製 品が数ある生産者の中で評判を取ったということが書かれている。おまけにサドが使われ 始めたのは1897年であり、だからデルマンとサドは別物なのだ、という結論になって いる。 だがこの情報はたくさんあるインドネシア語情報の中でマイナーな印象であることをお断 りしておきたい。 [dokar] KBBIの説明では、kereta beroda dua yang ditarik oleh seekor kuda; bendi;とな っている。既出の[delman]と[sado]がこのドカルを同義語にしている一方で、ドカルはベ ンディがその同義語に出現し、ヌサンタラの馬車名称の相関図が更なる広がりを見せてい る。[ 続く ]