「前置詞の多用は無用」(2021年12月31日)

ライター: 文学者、スラバヤ在住、スナルヨノ・バスキ・KS
ソース: 2008年8月15日付けコンパス紙 "Mengakar ke Bumi, Menggapai ke 
Langit"

インドネシア文壇におけるタウフィッ・イスマイルTaufiq Ismailの55年間の業績を記
念して、Mengakar ke Bumi, Menggapai ke Langitと題するかれの作品集が出版された。

全2,996ページで四分冊になっている。そのうちの三分冊は厚紙の表紙にジャケット
がかかっている。若いころから雑誌SastraでTaufiq AG Ismailの名前で活躍していたかれ
は詩だけでなく、短編小説・文化論評・コラム・翻訳、果ては歌詞まで書いた。

その作品集に接して最初に気になったのはタイトルのMenggapai ke Langitだ。KBBI
のgapaiの項には動詞と記されている。
menggapai: mengulurkan tangan hendak mencapai (anak itu berusaha menggapai meja 
dengan tangan kirinya): 
meraih, menyampaikan maksud の比喩 (berkali-kali gagal tidaklah mematahkan 
semangatnya menggapai cita-citanya)
というのがその説明だ。

その例文からわれわれは文構造が主語+動詞+目的語になっていることを理解する。タウ
フィッの作品集のタイトルには前置詞keが使われていて、KBBIの例文とは異なってい
ることに気付くだろう。英語であればmenggapaiに対応する表現はreach out for + 目的
語だから前置詞が使われる。前置詞が付かないreachはsampaiやmencapaiの意味になる。

He eventually reached London.はAkhirnya ia sampai di London.だ。前置詞keは目的語
を到達するべき目標場所にしている。

前置詞keのこの用法は、英語に引きずられたものだったのだろうか?ありうることだ。タ
ウフィッが高校生のときにAFSプログラムで米国に一年間滞在する機会を得たことをわ
れわれは知っている。その後もかれは世界中のさまざまな国を訪れ、その中には英語を日
常語にしている国もたくさんあった。


mengakarの語義をKBBIはmenjadi akar, mendalam atau menyatu benar di hatiと説
明している。mengakar ke bumiはmenjadi akar ke dalam bumi (tanah) dan kemudian 
mengisap sari makanan dalam tanah untuk mengukuhkan batang yang mengapai langit
と解釈できる。しかしbumiは目標場所でなくて根が生育する場所なのだから、mengakar 
di bumiの方が適切かもしれない。

インドネシア語と英語を比較すると、英語の方が饒舌だ。それがインドネシア人にとって
英語を操るのを難かしいものにしている。例えば、われわれはmenebang pohonやmengambil 
batuという表現で済ましているというのに、英語ではcut a tree downやpick up a stone
などと言わなければならない。教室で生徒に配るテスト用紙にインドネシア語で書けばこ
うなる。Isilah titik-titik di bawah ini ....それを英語で書けばこうだろう。Fill 
in the blanks ...

インドネシア語は前置詞を使わなくてよいのである。