「ジャワ島の料理(43)」(2022年01月06日)

そんなチルボンの名物料理の最右翼はnasi jamblangだろうか。ジャンブランというのは
チルボン市から10キロほど北西にある、チルボン県のひとつの郡の地名であり、昔はジ
ャンブラン街道沿いの村だった。この地域は昔の華人居住区だったそうで、アンパランジ
ャティに住み着いた鄭和船団の乗組員らが子孫繁栄し、この地域まで居住地域を広げてい
ったのだろうか?

チルボン市民にとってはジャンブラン地方で生まれた飯ということになるのだろうが、旅
行者にとってはそんな名前のチルボン料理だという解釈をしてしまうだろう。これも例に
よって、皿の上に飯とおかずが載ったナシチャンプルの一種と言えるにちがいあるまい。
ただしナシジャンブランのもっとも顕著な特徴は、飯がジャティつまりチークの樹の葉に
包まれていることだ。

チークの葉には薬効があり、また葉の細孔が飯の腐敗を遅らせるので、数日間の日持ちが
可能だ。言うまでもなく、チークの葉に包まれる程度の飯の量なのだから、せいぜい握り
こぶしくらいの大きさだ。ナシクチンやナシジンゴと似たようなものであり、1個では全
然腹が満たされない。

チーク葉に包まれたこのナシジャンブランについて、次のような由来が物語られている。
ダンデルスの大郵便道路建設に駆り出された地元民たちの多くは、無報酬の強制労働のた
めに食事を自力でまかなうことができなかった。それを見かねた他の住民たちがこれを作
って労働者たちに提供したのが発端だ。


ところが2007年12月9日付けコンパス紙に、ナシジャンブランを1932年に売り
出したシティ・ジャエナさんのストーリーが書かれている。その記事の内容によれば、ジ
ャンブランにある砂糖工場やチルボン港で作業者が定期的に行う祝祭のための宴の食べ物
としてシティ・ジャエナさんの両親が作っていたようだ。

祭りの日に特別なささやかな食べ物を、普段から激しい肉体労働を行っている貧しい労働
者たちに食べてもらって共に祝おう、という趣旨からシティ・ジャエナさんの両親が行っ
ていた喜捨の行為がそれだった。

ジャンブラン村の家からチルボン港まで10キロも離れており、プダティに積んで暑い日
射の下を運ばなければならない。そこに、飯をジャティの葉にくるむ発想が解決案として
登場した。おかげで飯は三日間も日持ちした。ジャティの葉が不足することはない。地域
一円がチークの樹で満ち満ちていたのだから。

その時代のおかずはサンバルゴレン・タフ/テンペゴレン・塩魚・豆腐と野菜の煮物・ナ
ンキョウ煮の肉・牛肺料理・・・。この料理にナシジャンブランという名前がそのころ付
けられた。そんな祝祭を前にして、ジャエナさんは2百キロのコメを炊いたそうだ。

ジャエナさんがナシジャンブランを売り出すと、世間の人気が集まってたくさんのひとび
とが買いに来た。1959年にジャエナさんが没すると、家族のサミラさんが商売を後継
し、行商人を使って売りに回らせたからますます知名度が向上した。サミラさんはおかず
のバリエーションをもっとたくさん増やした。

売りに回らなくても客が探しに来るようになれば、行商人は店を開いて客を待つスタイル
に変わる。チルボン市内にナシジャンブランを売っているワルンはたくさんあるが、たい
ていは昔行商していたひとたちがジャンブランから商品を仕入れて販売しているものが多
いそうだ。


ジャンブラン街道にあるジャエナさんの店はいま、三代目のティティンさんが2006年
から屋号をNasi Jamblang Tulenにして営業している。そこでは、ティティンさんのお婆
さんに当たるジャエナさんが開発した飯の炊き方がいまだにそっくりそのまま守られてい
る。薪の炉を使って飯を2時間かけて炊くのだ。

まず素焼きの飯炊き釜でコメを蒸す。次に素焼きの鍋でコメを煮る。仕上げはまた飯炊き
釜に移して蒸すのである。素焼きの道具類と薪の炉が飯の旨さを作り出しているとティテ
ィンさんは言う。そして飯をジャティの葉で包むのだが、熱い飯をすぐに包んではいけな
い。風を送って熱をさましてから包むのである。そうしてやると飯の変質や変色が起こり
にくくなる。そうすることで確実に三日間も日持ちするようになる。[ 続く ]