「自転車は風の車?(1)」(2022年01月10日)

現代インドネシアでは一般的に、自転車のことはsepedaと呼ばれている。スペダだけなら
人力の自転車であり、エンジンを付けるとsepeda motorになる。スペダの同義語としてイ
ンドネシアの国語学界はbesikal, kereta angin, pit, roda anginの四つを認めている。

ちなみにマレーシア語のKamus Dewanを調べると、自転車を意味する単語としてbasikal, 
kereta angin, sepeda, pit, roda anginが見つかるので、「インドネシア語とマレーシ
ア語は同じだ」説が証明されることになるのだが、インドネシア語のbesikalとマレーシ
ア語のbasikalは綴りが違っていて、同じではない。おまけに最も頻繁に使われる単語は
インドネシアがスペダ、マレーシアはバシカルなので、これも同じではない。

basikalは英語のbicycleの音写、pitはオランダ語fietsの音写だ。マレーシア人がオラン
ダ語を取り込む扉はたいへん狭いために、マレーシア語のピッはインドネシア語とマレー
シア語の間で融通し合った結果のように思われるのだが、どうだろうか。インドネシア語
のベシカルはマレーシア語のバシカルを変形させて取り込んだものだそうだから、やはり
融通が行われているにちがいあるまい。


インドネシア語で自転車を意味する最頻出単語のスペダはフランス語velocipedeの中の一
部であるcipedeの部分が音写されて作られたものだ。シペードはインドネシア人の耳と口
でスペダという形に変容したのだろう。

ヴェロシペードは、ドイツ人カルル・ドライスKarl Draisが考案して1817年6月に一
般公開したLaufmaschineという名の木造自転車が1818年以来フランスに輸入されるよ
うになり、その物品にフランス人が付けた名称である。フランス人はまた、ヴェロシペー
ドの他にdraisienneという別名でも呼んだ。

インドネシア語スペダの語源がフランス語だったというのは、どのような歴史の巡り合わ
せなのだろうか。ジャワ島がフランス領だったときに自転車が入って来たのだろうか?

ジャワ島のフランス領時代は1800年から1811年までの時期になる。1811年か
ら1816年までがイギリス領の時代であり、1816年に新興オランダ王国に返還され
てオランダ植民地時代が1942年まで続いた。

それに照らし合わせて見るなら、ジャワ島のフランス領時代にフランス本国にはまだドレ
イジェンヌの現物もなければヴェロシペードという言葉さえなかったのではあるまいか。
だから語源がフランス語だからフランス人、つまりフランスからの渡来物という発想をこ
の問題に適用することはできないのだ。


自転車がヌサンタラの土をはじめて踏んだのはいつのことだったのか?はっきりと年号を
示している文献は見つからないものの、1950年に印刷メディアに掲載されたToko 
Sepeda N.V Handel-Maatschappij社の企業広告に、この店は百周年を迎えたことが記され
ており、更に加えてBatavia, Bandoeng, Cheribon, Pekalongan, Tegal, Solo, Djogja, 
Semarang, Soerabaiaに支店を出していることも書かれている。

オランダ人が最初のヴェロシペード製造工場をデフェンテールに設けたのが1869年だ
ったので、オランダ王国の東インド植民地にそれ以前に入って来ていたのはフランスやド
イツから輸入された物だったにちがいあるまい。

その当時ヨーロッパ中をフランス語のヴェロシペードが風靡し、どこの国の人間もその品
物をヴェロシペードと呼んでいたようだから、ハンデルマツハペイをはじめとする東イン
ドの諸販売店はヴェロシペードという呼称でその品物を売っていたことに間違いないだろ
う。発明国のドイツでさえその言葉に倣ってvelozipedという言葉を作ったらしいから、
ヨーロッパ中の共通語になっていたのは疑いあるまい。必然的に東インドのあちらこちら
でもオランダ人がヴェロシペードという言葉で自転車を呼んでいたために、プリブミがそ
れをスペダと呼ぶようになったことは想像に余りある。[ 続く ]