「ジャワ島の料理(47)」(2022年01月12日)

スンダ人とジャワ人の間に対立感情が、特にスンダ人の側にジャワ人に対する敵対感情が
西暦1357年に起こったperang Bubatによって心に深く刻み込まれることになった。と
言っても、年がら年中顔を合わせればいがみ合っている、という現象などどこにもない。

かれらの双方が普段は穏やかで友好的に共同体生活を送っているのだ。何らかの原因で対
立が起こったときに、このブバッの戦いの故事を思い出して腹立ちが煽られるのではある
まいか。スンダ人はこのブバッの戦いを、マジャパヒッ王国の宰相ガジャ・マダがスンダ
王国を服属させようとして行った奸計という筋立てで描いた。

マジャパヒッ王国第四代国王のHayam Wurukが17歳で王位に就いてから7年後、独身の
若き王はヌサンタラ一円に強大な覇権を築き上げつつあったマジャパヒッと対等の立場で
独立国家を営んでいるスンダ王国の王女Dyah Pitaloka Citraresmiを正妻に迎えて両国を
血縁の絆で結び合わせることを考えた。

合意が成って、スンダの国王夫妻と王女、お付きのひとびとと護衛兵の軍勢が2千隻の船
でジャワ島北岸を航行し、マジャパヒッの王都Trowulanにやってきて王都北部のブバッに
宿を張った。ところが、王宮からの招きが待てど暮らせどやってこない。スンダ国王はこ
の失礼な処遇に腹を立てた。抗議の使いを宰相ガジャ・マダのもとに派遣したところ、ス
ンダはマジャパヒッに服属してその王女をマジャパヒッ王の側室に差し出すためにやって
きたのだろうから、婚礼の儀式など行われるはずがないという返事だった。

怒り心頭に発したスンダ側はすぐに全軍勢を戦闘配置に就かせてトロウランから退去しよ
うとした。マジャパヒッ側もスンダ側の戦闘態勢に合わせて王都防衛軍に防衛態勢を取ら
せた結果、マジャパヒッ軍はスンダ軍を包囲したのである。そうなれば、いざこざが起こ
らないはずがない。

どこで火が付いたのか分からないが戦闘はたちまち燎原の火のように拡大し、スンダ側は
国王を含めて男は全滅し、女は王妃王女とすべての官女が自決して果てた。ヒンドゥ文化
にあるクサトリアの理想的行動がそれであり、バリ島ではオランダの支配に抵抗して植民
地政庁と戦争した各王家が20世紀にも同様の全滅行動を繰り返している。バリではその
全滅行動をププタンpuputanと呼んでいる。

ブバッの戦いの結果、国王を失ったスンダ王国はマジャパヒッの属国にされて、スンダ人
はジャワ人の足下に跪かなければならない地位に落とされてしまったのだというのがその
話の結末なのだが、国王夫妻と王女がいなくなっても王家は残っているだろうし、軍総司
令官や宰相たちだって本国で健在だっただろう。事件のあと、そう簡単にスンダ王国がガ
ジャ・マダの言いなりになっただろうか?

歴史の実態はどうやら、スンダ王国はマジャパヒッと国交断絶し、ジャワ人はスンダ領内
に入ることを許さないというような政策が取られたようだ。しかし昇竜の勢いを続けたガ
ジャ・マダのヌサンタラ統一の前に、最終的にスンダ王国は屈服したように見える。それ
を直接的にブバッの戦いにのみ結びつけたのは、どうも歴史力学に即した解説でなかった
ようにわたしには思われるのである。


一方ジャワ人の側からは、その事件は単純なガジャ・マダの征服欲だけが原因だったので
はないという説が出されている。その内容として、マジャパヒッ王家の始祖ラデンウィジ
ャヤはスンダ王家の血を引いており、その直系の孫であるハヤムルッはディヤ・ピタロカ
と濃い血縁関係にあるためにその婚姻に同意しない声が王宮内にあって、マジャパヒッ王
家の中でダハ王国の王女をハヤムルッの正妻にしようと動いていた王族がディヤ・ピタロ
カとの話を破談にさせるようガジャ・マダに命じたことから、進退に窮したガジャ・マダ
が最後の最後になって一芝居打ったためにあの悲劇が起こったという説も語られている。
また別の説として、スンダ王こそがディヤ・ピタロカ王女をハヤムルッの妻にしてマジャ
パヒッ王国を乗っ取ろうと考えた挙句の策略であり、スンダ王の腹中を読んだガジャ・マ
ダがスンダ人に天誅を加えたのだということを言うひともあって、例によって諸説紛々暗
中惑々になっている。[ 続く ]