「自転車は風の車?(3)」(2022年01月12日)

19世紀前半にオランダ人がヴェロシペードをヌサンタラに持ち込んだあとも、ヨーロッ
パで自転車の改良がさまざまに進められ、1879年にチェーンの使用が始まり、188
5年に前輪と後輪が同一サイズの自転車をイギリス人ジョン・スターリーが考案して現代
の標準形体の基礎が作られた。バタヴィアにそのRoverブランドのモダンな自転車が登場
したのは1890年だった。バタヴィアがアジアの中のヨーロッパとしていかに密接にヨ
ーロッパと繋がっていたかということが、そこから感じられるだろう。

その年、オランダ人実業家フライターGruyterがローヴァー社製自転車を輸入して、ガン
ビル地区に店を開いて販売した。一台5百フルデンという結構な価格だったから、植民地
政庁の役所やキリスト教団などの組織と行政高官を主体にしたオランダ人上流層や華人分
限者がそのローヴァ―セーフティ自転車を購入した。フライターはガンビル広場の一角に
自転車レース場を設けて購入者が遊ぶための場を提供した。そこでスピードを楽しんだの
はオランダ人と華人ばかりだったそうだ。


1894年4月21日付けのペナンの新聞に、北スマトラのアサハンにあるタバコ農園で
自転車を使っているヨーロッパ人マネージャー氏の紹介記事が掲載された。その地方での
パイオニアがそのマネージャー氏だったのだろう。

さすがにバタヴィアではもっと早く、新聞ヤファボデJava bodeは1890年4月7日の
イースター祝日にバタヴィアからバイテンゾルフまでの道をサイクリングで踏破したひと
の記事を出した。この人物の名前や身分は記事の中に述べられていないが、バタヴィア在
住のオランダ人のひとりではないかと推測される。


ローヴァ―製自転車をオランダ人はもはやヴェロシペードと呼ばなくなり、fietsあるい
はwielrijderと呼ぶようになった。インドネシア語pitはfietsに由来しているが、一方で
既にプリブミの間に定着していたスペダは自転車の形体が変化したにも関わらず、維持さ
れたようだ。

フライターの自転車販売が大当たりしているのを目の当たりにしたビジネスマンは自転車
輸入販売事業にこぞって参入したのではあるまいか。しかしバタヴィアの路上を自転車の
長い列が走るようになった契機は第一次世界大戦だった。第一次大戦の間、少しも戦火を
被らなかった蘭領東インドにヨーロッパ中から続々と商社がやってきて、店開きした。こ
うして自転車市場は1920年代に著しい成長を示し、1930年代にその黄金期を迎え
たのである。

バタヴィアだけでなくバンドン・スマラン・スラバヤ・メダン・バンジャルマシン・マカ
ッサル・・・。当時の宣伝広告に使われたエナメル塗装の金属板がそれらの諸都市を彩っ
た。Fahrrad, Opel, Gazelle, Raleigh, Simplex, Burgers, Humber, Kaptein, Mustang, 
Hercules, Rudge, Batavus, Cyrus, Phoenix, Fongers等々のブランドが蘭領東インドに
自転車天国を形成したのだ。

1937年にバタヴィアで登録された自転車の累積台数は7万台に達し、およそ60万人
だったバタヴィア住民人口の1割を超えた。住民8人に自転車1台という比率になる。


アムステルダムのプリンセンフラフツ581/583番地を住所にするN.V Handel en 
Industrie-Mij. V/h M. Adler が発行者である自転車の構成部品カタログが1914年4
月に英語・オランダ語・ムラユ語で作られた。バタヴィアでは第一次大戦中にそれが流布
したのではあるまいか。

これは多分、車体メンテサービスの手引きや部品グレードアップあるいは車体改装の資料
としての用途並びに販売促進の小道具として作られたものではないかとわたしは想像する
のだが、自転車がプリブミ大衆の所有物として一般化するにはもう少し歳月が必要だった
から、ムラユ語が販促の役に立ったのはだいぶ後になってからのような気がする。

自転車はまだまだ高価な資産であり、プリブミの間でそれを持てる者は限られていた。政
庁の役人が業務遂行のスピードアップに使うことが最優先事項であり、それは警官や軍人
などの治安要員についても同じだった。植民地警察内に設けられたVeldpolitie野戦警官
部隊が何十人も長銃を背負って自転車で列走している写真がしばしば見受けられるが、そ
れは多分1930年前後の時期に撮られたものではないだろうか。[ 続く ]