「自転車は風の車?(7)」(2022年01月18日)

1980年代に入ると、オルバレジームが国家開発に加えるドライブが強さを増した。四
輪二輪自動車の増産と自動車専用道路建設をはじめとするモータリゼーションのためのイ
ンフラ向上が自転車の存在価値を弱め始めたのだ。国民大衆は自転車から自動車へと視点
を移すようになっていった。自動車を持つことが豊かな生活を目指す国民の夢になり、必
然的に自転車のイメージは貧困に結び付けられることになった。

自転車は国民の交通機関のカテゴリーから脱落し、交通行政が作る諸計画の中から姿を消
し、町中を自転車で走ることはたいへんな危険と背中合わせで行われる冒険に変化したの
だ。自転車で走りたければ、自己責任でどうぞ・・・。

だがその後、自転車の交通機関としての機能に代わってレクレーションサイクリングのた
めの道具という使われ方が出現し、更には行き過ぎたモータリゼーションが街中に生み出
す交通渋滞や大気汚染への反省や批判として、通勤に自転車を使うbike to workなども世
の中に出現して来た。行政が自転車を白い目で見ていたのだから、ひとびとは集団走行す
るのが普通だったことを忘れてはなるまい。


1千キロを超える長距離を数日かけて走る自転車レースがインドネシア共和国で初めて行
われたのは1958年の第一回Tour de Javaだった。このレースはバンドンからチルボン
→スマラン→レンバン→ソロ→ヨグヤカルタ→プルウォクルト→バンジャル→ガルッ→バ
ンドンというルート1,248キロを周回した。翌年の第二回ツールドジャヴァはコース
が変えられ、ジャカルタ⇔マラン間を巡る1,959キロを走った。

それから9年間の空白期をおいて、1969年にISSI(インドネシア自転車スポーツ
連盟)がツールドISSIを開催した。そのときはジャカルタ⇔スラバヤ間がレースコー
スになった。ISSIは1976年からジャワ島外での自転車レースを開始し、手始めは
スラウェシ島ウジュンパンダン⇔マリノ間、1981年に西カリマンタン、1984年に
また南スラウェシ、1986年に西スマトラが会場になった。1990年にはジャカルタ
から北スマトラ州メダンまでの1,500キロを走る、多数の州を巻き込む大会が催され
た。

ツールドISSIは1992年の第11回大会のあとストップし、2000年に復活して
スラバヤからジャカルタへというコースが使われ、2003年の大会はマレーシアから選
手を招いて国際大会に規模を広げた。

国際大会に昇格させたことで名称もツールドインドネシアと変わり、2004年にはイラ
ン・香港・ニュージーランド・デンマーク・スイス・タイ・マレーシア・台湾・ベトナム
・オランダ・エジプトとインドネシアから17チーム80人が参加してレースを盛り上げ
た。翌年の大会にはアメリカとモンゴルからも参加している。

一方、ISSIはツールドISSIシリーズとは別にツールドジャヴァを1983年に復
活させている。名称をツールドジャワと変えた、インドネシアの長距離自転車レースの事
始めを記念するレースは1985年と1989年に開催されたあと、続かなくなってしま
った。


乗物レースと言うと、自動車レースに焦点を当てるひとが多いだろう。インドネシアで初
めての四輪自動車のレースが行われたのは1911年5月11日だった。これはバタヴィ
ア→スラバヤ間およそ850キロをより短時間に走破した者が勝者になるというレースで
ある。

主催者はジャヴァモータークラブ機関誌Het Algemeen Sportblad(雑誌「総合スポーツ」
)で、ジャカルタ・スラバヤ間を汽車より速く走破することを実証するのが最大の目的だ
った。つまり24時間以内に到着しなければお話にならないということだ。[ 続く ]