「自転車は風の車?(8)」(2022年01月19日)

参加条件はエンジンパワー60馬力を参加車両の上限にするということだけであり、走行
はどのようなルートを通っても構わず、要はジャカルタのマトラマン通りを出発してから
スラバヤのゴールにいかに短時間で到着するかというのが勝敗の判定基準とされた。

このレースに参加したのはフランス製ドゥローネベルヴィルDelaunay Bellevilleと、や
はりフランス製シャロンCharronが各一台。フランス製四輪車の一騎打ちだ。どちらも4
気筒の乗用車である。

それぞれの車にはドライバーと交代要員、そしてプリブミの助手、および新聞記者ひとり
の合計4人が乗り込んだ。ドゥローネベルヴィルはオランダ人ふたりが運転したが、シャ
ロンはヨグヤカルタでシャロン車を輸入販売しているフランス人がハンドルを握った。交
代要員はオランダ人、新聞記者はスマランのデロコモティフ紙記者デュクロ―だった。

デュクロ―のレース同乗記によれば、次のようなレース展開だったようだ。
18時きっかりに旗が振られて、シャロン車はバイテンゾルフに向けて飛び出した。
ドゥローネのスタートは18時15分。
18時半に最初の犬と衝突事故。
19時5分にバイテンゾルフの町の灯が見えて来た。二匹目の犬と衝突。
19時半、スカブミのチバダッに入る。
20時15分、また犬と衝突。
21時、チアンジュルのムシジッ山近くの急カーブで水路に落ちる事故。ドアが外れかか
り、ホイールがへこみ、タイヤがひとつ外れた。人体に怪我なし。
21時15分、後方からライトが近付いてきた。ドゥローネがクラクションを鳴らし、土
埃を巻き上げながら通り過ぎて行った。車を水路から押し出し、修理して出発。
22時、エンスト。クランクをかける。再出発。
23時、バンドン手前のチマヒの軍事地区に到着。
23時10分、バンドン着。ホテルプリアンゲルに立ち寄り、給油と給水。デュクロ―は
翌朝の新聞記事を電報で送る。
24時、スムダン到着。運転者交代。
3時、チルボン着。パジャマ姿の市民が飲食品を差し入れ。ドゥローネは20分前に通り
過ぎたばかりだそうだ。
4時、トゥガル到着。ドゥローネはわずか5分前に通ったばかりだと住民が言う。
5時、シャロン車のヘッドライトにドゥローネの土煙が映った。
6時、プレレンの上り坂でドゥローネに追いついた。ドゥローネは道を開ける気配を示さ
ないが、シャロンは路肩を使って追い越した。ドゥローネが土埃を浴びる番だ。
6時半、クンダルに到着。
6時50分、スマランに入る。更にドゥマッ→クドゥス→レンバン→グルシッを通過。
13時26分、シャロンがスラバヤに到着。レースの優勝者になった。
全行程の平均速度は時速44キロ、最高速度は85キロだった。
ドゥローネの運命は悲惨だった。ドゥローネは三回事故を起こし、同乗記者は最初の事故
で軽い怪我をした。ところが三回目の事故でかれは不帰の客となったのである。


似たようなことは、オートバイでも繰り返し行われた。オートバイの場合はレース催事と
言うよりも、記録への挑戦の趣が強かったようだ。オートバイによる最初の挑戦は191
7年5月7日に行われ、ヘリッ・デ・ラアツGerrit de RaadtがReading製オートバイを使
って24時間45分の記録を作った。

その当時、街道沿いにガソリンスタンドがあるわけでもなく、修理ベンケルやタンバルバ
ンが道路脇に店開きしているわけでもなく、自動車関連の諸用品を売っている店さえなく、
四輪車なら多少の器材は積めるだろうが、二輪車はその点に関してはるかに条件が悪いの
だから、ヘリッは要所要所にその対策を前もって仕込んでおかなければならなかったので
はあるまいか。このオートバイによる挑戦は四輪車よりはるかに手間と費用がかかったの
ではないかと想像される。[ 続く ]