「自転車は風の車?(9)」(2022年01月20日)

しかしそれからほんの一週間ほど経過した1917年5月16日、フリッツ・アイマース
Frits Uijmersとヴィム・ヴィホルWim WygchelのふたりがExcelsior製オートバイを交替
で運転しながら平均時速42キロでヘリッの記録を塗り替えた。所要時間は20時間24
分だった。

するとまた一週間ほど後の1917年5月24日に、スマラン在住のオランダ人ゴディ・
ヨンガGoddy Youngeが愛車Harley Davidsonを駆って17時間37分の記録を打ち立てた。
平均時速は48キロだ。その一週間後に記録破りに挑戦する者は現れなかったが、四カ月
たってから1917年9月18日に挑戦者が出現した。

バレンツ・テン・ダムBarend ten DamがIndianブランドオートバイで15時間37分の快
記録を達成したのだ。平均時速は52キロになる。するとゴディ・ヨンガがチャンピオン
の名誉を防衛する挙に出た。一週間も経たない1917年9月24日、かれは再びハーリ
ーデイヴィッソンにまたがり、平均時速60キロで突っ走ったのである。所要時間14時
間11分の新記録が金字塔に輝いた。

一番最初に記録を作ったヘリッ・デ・ラアツは、後進にどんどん記録を塗り替えられてい
く様子を見てどう思っていたのだろうか?あれから15年も経過した1932年8月18
日、かれは再びバタヴィア→スラバヤオートレースに挑戦した。ヘリッはその目的のため
に当時最速のレースマシーンという評価を得ていたRudge Ulsterを輸入してこの壮挙に賭
けた。

ラッジアルスターは1929年から1939年までレーシングバイクを生産したイギリス
のメーカーで、その500ccエンジンはその時代のスピード王という評判を博していた。
最高速度90mphは時速140キロに相当する。

このラッジアルスターのおかげで、チャンピオンの栄冠は再びヘリッの頭上に戻って来た。
バタヴィア→スラバヤ間をかれは10時間1分で駆け抜けたのである。それは永遠に破ら
れない記録になった。


ヌサンタラの土を自動車が初めて踏んだのは、1893年のことだった。ドイツのミュン
ヘンでHildebrand und Wolfmullerが1893年に世界最初のオートバイ商業生産を開始
したあと、東ジャワのプロボリンゴにあるウンブルUmbulサトウキビ農園の製糖工場で働
くイギリス人エンジニア、ジョンCポターからの手紙が届いた。いまだかつて聞いたこと
もない、有名なジャワ島内のプロボリンゴという土地に製品を1台送れという注文だ。製
造者のヒルデブランドとウォルフミュラーは送り先の町を地図で探しただろうが、果たし
て見つけ出すことができたのだろうか。

ともあれ、その年のうちにオートバイはスマラン港に届いた。ポターはプロボリンゴの農
園でそれを乗り回したに違いあるまい。だからヌサンタラにおける自動車の皮切りはオー
トバイになった。

世界に最初に市販されたこのオートバイは、水平に置かれた二つのピストンが後輪を回転
させる構造になっており、チェーン・ギヤ・マグネット・バッテリー・ケーブルなどが一
切ないシンプルな形態をしていた。燃料はナフタが使われ、動く前に20分間のウオーム
アップが必要だった。

このオートバイは1932年にポターのワークショップの片隅で、分解され錆びついた状
態で発見された。スラバヤのオランダ海軍技師がそれを復元し、最終的にスラバヤの交通
博物館の所蔵品になった。

このヒルデブランド・ウオルフミュラー社は、1895年にイギリスの自転車メーカート
ライアンフがオートバイ生産に乗り出すことを決めたために同社に買収され、1902年
からトライアンフ社はベルギーのMinerva社製エンジンを購入してオートバイを売り出し、
1905年になって自社エンジンを搭載したフルスペックに転換した。[ 続く ]