「ヌサンタラのインド人(5)」(2022年04月29日) 言うまでもなく、バラモンやクサトリアといった身分の高い人間が単身で長い旅をするは ずがなく、低カーストのひとびとを複数連れて身の回りの世話をさせながら旅をし、目的 地に移住したはずであり、低カーストのひとびともヌサンタラの王宮に入り、王宮で働く 地元の低階層使用人と交わったと思われる。 つまり高級カースト者だけでなく、低カーストのインド人も一緒になってヌサンタラの王 宮の文明化に手を貸したということではないだろうか。だから宗教・文学・水稲技術・治 水技術や建築工学などをヌサンタラの民衆が摂取したのは地元の王宮からであって、イン ド人から直接学ぶことはあまり起こらなかったようにわたしには思われる。 インドの叙事詩マハバラタやラマヤナ、民衆統治の裏側に置かれるべきヒンドゥ的な諸原 理、あるいはヒンドゥ教の諸観念や宗教祭祀などはそのようにしてインドネシアに浸透し て行った。ワヤンの語源は人形劇を意味するインド語のmawayangだそうだ。 そのころ持ち込まれたインド的風習のいくつかは現代まで持ち越されて、いくつかの地方 で慣習として生き残っている。たとえば婚姻の式典で卵を踏んで割る儀式や、妊娠七カ月 を意味するtujuh bulananと呼ばれる形式の祝い事などだ。 しかしインド文化が丸呑みされて後生大事に維持され続けたわけでもない。ローカル化に よるバリエーションの発生はどこでも避けて通れないものだ。たとえばラマヤナ物語にお けるハヌマンは、オリジナルでは風の神の息子になっているが、インドネシアバージョン では太陽の神の息子に変化している。ヌサンタラの民が持っていた風と太陽に関する価値 観がインド人とは異なっていたことをそれが示しているように思われる。 カリンガ王国がジャワ島のインド文明化の立役者になったことを示す顕著な証拠がディエ ン高原チャンディ群だ。チャンディ群が建設されたのは西暦7世紀のことで、ディエン高 原はヒンドゥ教の聖地とされた。人間の暮らしやすい場所にするためにシワ神がはじめて 瞑想場をジャワの地に設けたという話が語られている。 中国の唐書にもジャワのカリンガ王国の記事が登場する。訶陵国または闍婆と書かれてい るため、まるでカリンガがジャワ島を代表するような扱いに見える。闍婆はマンダリンで shepoと発音するが、中古音ではチアブアという音になる。意味はジャワもしくはスマト ラあるいはその両者のこと、と中国語百度百科に記されている。 であるならチアブアはジャワの音写である可能性が高いと言える。ところが、もしも朝貢 遣使団がカリンガまたはジュパラと言ったのを唐の役人が「訶陵又稱闍婆」と筆記したの であれば、文脈上の問題は消えて音写が不適切という印象が残る。別の中国語資料にはジ ュパラについて、扎巴拉城(闍婆城)と記載しているものがあり、そのとき書かれたチア ブアがジュパラだったと解釈できないこともなさそうではあるまいか。 訶陵は英語表記がHo-lingになっているのだが、わたしには曖昧母音[e]を使ったHelingの 方が実音に近いように思われる。それはそれとして、中国の史書に訶陵国とは別に訶陵迦 という言葉も記載されていて、カリンガを中古音でHalingkaと書いたのではないかという 気にさせてくれるのだが、史書の文中で訶陵迦は王の名前とされているようなので、国名 ではなさそうだ。 奇妙なことに、中部ジャワのその古代王国はインドネシアの歴史でカリンガと呼ばれてお り、中国語の史書に書かれている訶陵と語形が違っている。訶陵Halingはカリンガの語尾 の「ガ」が欠けているのだ。しかしその語形はKelingと一致している。もしもKelingが Kalinggaからできたのであれば、Kelinggaとなる方が自然ではないだろうか。[ 続く ]