「ヌサンタラのインド人(8)」(2022年05月06日)

マラッカ海峡にまだ西洋人の干渉が及ぼされる前の時代には、スマトラ島東岸はメダンに
近いコタチナ、西岸はバルスがスマトラ島北半分における通商の大センターになっていた。
スマトラ島に産する樟脳などの森林物産や鉱物資源がその二大商港に集まり、外国人商人
との間で取引された。

西からやってくるインド商人の多くは、南インドのタミル人だった。タミル人の東南アジ
アへの進出は9世紀ごろから始まった。スリランカ・ビルマ・タイ・マレーシア・中国・
インドネシアなどで発見されたタミル語の碑文から、その事実が証明されている。タイ南
部のTakuapaにはタミル人の商人組合が作られて、タミル人居住地も設けられた。スマト
ラ島では、島の北半分の東北部と南西部の海岸にタミル人居住地ができた。

スマトラ島で発見されたタミル語碑文は、バルスのLobu Tua碑文、バンダアチェのNeusu
碑文、メダンのKota Cina碑文、タナダタルのBandar Bapahat碑文などが挙げられる。

バルスから北西におよそ25キロ離れたラブトゥアで1872年に、グランタ文字(パッ
ラワ文字に由来するタミル文字)の彫り込まれた石碑が見つかった。碑文はタミル語が使
われ、Ainnuarruvar「一千の方角の第五百」がサカ暦1010年(西暦1088年)2〜
3月にこの石碑を建てたことについて述べられている。


そのタミル語で書かれた碑文の中にVarosuのVelapuram、課金を納めなければならない三
階層のひとびと、などといった内容が記されている。ヴェラプラムはタミル商人が集まる
場所を意味し、ヴァロスの町中の商船が荷役を行う場所、つまり港を指した。ヴァロスと
は外ならぬBarusのことだった。ヌサンタラのプリブミがバルスと発音する言葉をタミル
人はヴァロスと言っていたのだ。

タミルの本国に保存されている歴史資料にVarosu cutan, China cutanという言葉が見つ
かっており、樟脳の由来地を示すそれらの言葉からヴァロスはバルスを意味していること
が解読された。ヴァロスのヴェラプラムとはバルスの町でタミル人が商活動を行う場所を
指し、そこでの商活動に関連して三種類の立場のひとびとから課金が徴収され、その徴収
を行っていたタミル商人組合組織が「一千の方角の第五百」という名称だったことが明ら
かにされている。

タミル人の商人組合は複数あって、ヒンドゥ・仏教・イスラム・ネストリウス派キリスト
教など同じ宗教の商人が集まって組合を結成していた。それを根拠にして、西暦第一千年
紀の半ばごろにはスマトラ島のバルスにキリスト教徒が住んでいたと言うことができるか
もしれない。タミル人だけでなくペルシャ商人の中にも東方教会信徒がいたのではあるま
いか。かれらがバルスで家庭を持てば、その家族は自動的に父親の宗教に従ったことだろ
う。バルスのタミル商人組合は強い結束力で個々の構成員を保護したことから、バルスの
町でタミル人の社会的立場は強まり、安定した暮らしが営まれたようだ。バルスにはタミ
ル寺院が建てられてコミュニティの宗教祭祀に使われていた。バルスを訪れるタミル人は
1千5百人にのぼったとロブトゥア碑文は記している。


組合は所属するそれぞれの船の船主や船長らに対して黄金で課金を納めるよう命じた。納
められた課金の一部は組合の運営費用に充て、残りはインドのチョーラ王に貢納した。イ
ンド南部のタミル人の地を統治したチョーラ王朝は西暦紀元前3世紀ごろから13世紀ま
で続いた、たいへん長命な王朝である。タミル商人たちは王に海上交通と海外取引への保
護を要請し、王は通商保護のための軍隊の使用に対する対価を商人から求めた。

バルスで樟脳の品薄が継続するようになると、タミル人は生き残りの道を探すようになる。
かれらはスマトラ島東北部及びマラヤ半島西岸地域に活動場所を移した。その地域はマラ
ッカ海峡への西からの進入路に当たっている。マラッカ海峡の全域で通商を支配していた
スリウィジャヤ王国とタミル人の交渉は決裂したに違いあるまい。スリウィジャヤが要求
した入港料や海上通行料の金額をタミル人が拒否した可能性は小さくない。なにしろタミ
ル人はチョーラ王への貢納金を捻出しなければならなかったのだから。[ 続く ]