「ヌサンタラのインド人(10)」(2022年05月10日)

19世紀にハドラマウトからアラブ人が続々と移住して来てバタヴィアのプコジャンでは
コジャ人がアラブ文化の中に溶け込んでしまい、地名はプコジャンでもコジャ人のアイデ
ンティティを示す家庭が一軒もなくなってしまった。バタヴィアのプコジャンはカンプン
アラブになったのである。

ところがプコジャンの転変はまだ続いた。1950年代ごろまでは住民の95%がアラブ
系の世帯だったものが、その後アラブ系の家庭はジャカルタの各地に散って行き、アラブ
人の後を埋めるかのように隣のプチナンから華人が移り住むようになった。2000年代
初めごろのプコジャンには、60世帯ほどのアラブ系住民しか住んでいない。

だからジャカルタのプコジャンはアラブ系住民の居住地区であるという解説は歴史の中の
一時期だけを述べるものであって、出だしの部分と最新状況が語られなければ正確な説明
にならないように思われる。


19世紀半ばに、またインド人のヌサンタラ移住が起こった。現在のメダン市域に含まれ
るデリDeliスルタン国の領地をオランダ人タバコ事業家ニンハウスがタバコ農園のために
借地し、地元民を雇おうとしたが地元民は肉体労働を厭う者がほとんどだったために異民
族を呼び集めた。それに応じたのが東方からの華人とタミルをメインにする西方のインド
人だった。デリ会社の後を追って東スマトラ地方にたくさんの農園が作られたときに撮影
された、森林原野を開墾して農園用地や道路を作っている工事現場の写真の中に、大勢の
タミル人労働者の姿が写っている。

デリ会社N.V. Deli Maatschappijの設立は1869年、そして80年代から外国人労働者
の波が北スマトラ州に流れ込んで来た。やってきたインド人は数千人に上った。その波が
1884年、メダンのカンプンクリンにシュリマリアマン寺院を建立した。メダンの西隣
にあるビンジャイのシュリマリアマン寺院は1876年に建てられていて、スマトラ東岸
地方の最古のものとされている。

そのビンジャイのシュリマリアマン寺院はランカッのスルタンアジジが建立させてタミル
人コミュニティに寄贈したものだ。ランカッにおけるタミル人コミュニティの頭領、ムト
ゥ・カピテルがランカッのスルタンアジジと深い親交を結んでいたことがその建立を実現
させたという話になっている。


タミル人は故郷で行っていた伝統的祭礼をメダンでも続けた。最初、後にカンプンクリン
になるその地区は野原と林ばかりで、タミル人の民家はちらほらとしかなかった。しかし、
シュリマリアマン寺院で祭礼が行われる時にはあちこちの農園から大勢がやってきた。タ
イプサムの儀式がタミル人にとっては最大の祭りだった。

農園管理者はタミル人に対してタイプサム休暇を特別に与えていたが、マンドル(現場監
督)はしばしば作業能率や態度の良くないタミル人労働者に、タイプサム休暇を取り消す
ぞと嚇かしてあぶら汗をしぼった。その方法はたいへんな効き目があったそうだ。

そのうちに、その地区にインド人住民が増加して、Kampung Kelingと呼ばれるようになっ
た。ほとんどの農園で労働者はみんな農園内のバラックで寝起きしていたようだから、カ
ンプンクリン住民は農園と関係のないひとびとだったように思える。かれらはたいてい、
メダン市内で荷担ぎ人足や建築労動者などの肉体労働をしていた。ベチャが作られるよう
になると、かれらはベチャ引き仕事に参入した。

しかし今メダンのカンプンクリンはKampung Madrasと名前が変えられている。マドラスの
名前はインドでも1996年まで一般的だった。現在はチェンナイという名称に変わって
いるが、タミル人にとって大都市のひとつである。だからと言って、メダンのカンプンマ
ドラスがタミル人一辺倒だと考えてはいけないのだ。北インドのプンジャブを故郷にする
シッSikh人もそこに混じっているのだから。

カンプンマドラスにはインド風の寺院や建物があって、インド人街の印象は依然として優
勢なものの、1950年代にインド系住民がメダン市内の諸方に引っ越して行き、現在で
は華人系住民人口がインド系を上回っている。[ 続く ]