「ワルン(9)」(2022年05月12日)

店主は忙しさにかまけて座談会に半身で接するだけになり、座談会の軸は互いに見知らぬ
客たちの間に移って行く。こんな座談会でポイントが置かれるのは語った内容であり、そ
れを言った人物が一張羅を着ていようが野良着姿であろうが、そんなことは斟酌されない。
つまり店の外でその人物が会社の社長であろうが組織のボスであろうが、言った言葉にそ
の色を塗って聞くということがなされないのだ。どんな内容のことをどのように語ってい
るのか、ただその一本勝負なのである。

そのようにして言葉を交わした他人の間に物識りさんもいれば毒舌さんもいて、かれらが
発したずっしりと重い、あるいは華麗にきらめく言葉が印象に残る。「昨夜の話は面白か
ったな。あの人は今夜もあの店に来るだろうか?この件についてあの人はどんなことを言
うだろうか。よし、今夜もあの店に行って、この話を出して見よう。」

そんな現象は人間好き・話し好きのインドネシア人ならではのもののように思われる。イ
ンドネシア人はたいてい衆人を前にして物怖じせずに堂々とスピーチをするし、また成熟
して行くにつれて話術の巧みさに磨きがかかっていくために、群衆に向けられた見ず知ら
ずの他人の話を聞いてもたいてい面白く楽しいものが多い。もちろんそのようなことがで
きない人間もいるにはいるのだが、できる人間がマイノリティの社会とできない人間がマ
イノリティの社会では、社会生活の内容がまるで異なってくるだろう。

インドネシアで生活し始めたころのわたしにとっての大発見がそれだった。たくさんの人
間がそのようになれる社会というのは、そうでない社会しか知らなかった人間にとっては
驚愕ものだったということだ。成熟した人間は沈黙して自分の行為行動にすべてを語らせ
るという文化と、成熟した人間は言葉で社会や後進に理解と納得を与えて導くものだとい
う文化では、社会のかたちが異なるものになっていくのも当然のように思われる。


スラバヤの道端飲食ワルンで、客は決して王様にならないと言われている。日本には「お
客様は神様です」という俚諺が確立されているが、インドネシアの俚諺では「お客様は王
様」と表現される。日本文化の神様とインドネシア文化のTuhanは意味内容が違っている
のだ。ある日系企業の駐在員がこともあろうに、その日本語俚諺をインドネシア人従業員
を前にして、直訳してしまった。辞書に記された単語の置き換えが翻訳だと思っている人
間に付いて回るミスのひとつだ。

その一事で、かれがそのとき従業員に与えた訓話の大部分が従業員の頭の中から飛び去っ
てしまった。その日、従業員たちが行っている雑談の中からトゥハンという単語が頻繁に
聞こえて来たから、従業員の頭の中に入ったのが何だったのかはたいがい想像がつく。


さて、スラバヤ市内道端飲食ワルンは、店主が客をお客様扱いしない。時には店主が客に
ズケズケとものを言い、悪態をつき、jancukあるいはjancokといった罵り言葉を浴びせる
から、店主の礼儀知らずやガラの悪さにムカつくひとは道端ワルンを利用することができ
ない。しかし友人としての他人に対して持つべき一線は厳守される。それを踏み越えてし
まえば、その客は二度と来ないだろう。

客のほうも、店側の人間を自分にかしずかせようとはしない。店の人間が忙しくしていれ
ば、出来合いのおかずを自分で取って来て食べるのが普通のふるまいだ。

スラバヤの下層庶民の生活環境の中にあるワルンでは、客は友人として扱われるのである。
店主の友人であると同時に他の客の友人でもあるという位置付けだ。普段の暮らしの中で、
年来の友人同士が悪態をつき合ったからと言って、そのことが原因で腹を立てて喧嘩にな
ることはまずあるまい。素のままの自己を互いに受け入れ合ったために悪態の交換が起こ
るのだから。

スラバヤ俗語のジャンチュッあるいはジャンチョッは更にcuk, ancok, ancukなどのバリ
エーションがあり、英語のfuck, shit, asshole, bastardなどに相当している。[ 続く ]