「ワルン(終)」(2022年05月17日)

だからそんな関係になったブギス=マカッサル人の家に三日以上泊まったり連続して訪問
してはいけない、と識者は冗談交じりに語る。なぜなら、その後のかれの暮らしは借金漬
けの重い負担に彩られてしまうからだそうだ。「義兄弟のように思う相手に最高の饗応が
できないくらいなら借金を抱えて死んだ方がマシだ」とたいていのブギス=マカッサル人
は考えている、と郷土文化研究者のひとりが物語った。

ブギス=マカッサル社会における人間関係は食べ物を通して始まる。食べ物をだれかに勧
めることは、そのひとに敬意を表しつつ交友関係が開始されることを象徴する。そんなロ
ジックが裏側に置かれている文化では、勧められた食べ物を食べない者は相手との人間関
係の扉を開かないこと、相手を拒否することを意味することになる。勧めた者の心が傷付
いて当然だろう。


しかしマカッサルのワルンが完ぺきなエガリタリアンになっていない面もあるにはある。
店の外でボスのステータスにある者は、連れ立ってワルンに入った者たちの飲食を負担す
るという常識も存在している。自分はコーヒーだけしか飲まなかったにせよ、他の連中の
飲み食いの代金をかれが支払うのは当然という風土があるのだ。これこそ、店外のパトロ
ン=クライアント関係が店内に持ち込まれているズバリの実例だろう。

つまり、行政高官や明らかに富裕な者が自分より劣位にある者の飲食を世話してやらない
ということは当人の威厳に関わる問題になっていて、本人はそこに恥の問題を重ねようと
する。おかげで店外の偉いさんが店内でも偉いさんのまま連れの食事代を払ってやること
になる。その連れがその店でツケを貯めていれば、それも一挙に解決される。

もちろん偉いさんの財布の中身に不足があれば、「申し訳ないが・・・」ということで終
わるわけだ。人間の営みは杓子定規にはならない。


この観念は更に続いて、だれかをワルンに誘ったら、誘った者が誘われた者の飲食代金を
払うものであるという常識に発展した。おごってやるという気がなければ、ワルンでの食
事に誘うなということだろう。

わたしもインドネシア文化初心者のころ、ジャカルタで部下のマナド人に同じことを言わ
れた。わたしはこう説明したのだが、理解してもらえたかどうかは分からない。

日本文化では、一席その人のために設けるという状況でない場合に相手の食事代を負担し
てやるのは恩を相手におっかぶせているのと同じことであり、負担してもらった方がまっ
とうな一人前の人間ならばそのために恩返しの義務を背負わされることになるため、ただ
単に一緒に食事をするという場合はダッチアカウントにして明朗な人間関係を培うことが
良しとされているのだ。

わたしの理解はそんなものであり、つまりは会社の上司と部下というだけの関係にパトロ
ン=クライアント関係を持ち込むことはわたしの主義でないということをほのめかしたの
だが、インドネシア文化においては異端児的な意見になったかもしれない。

それにしても会社の接待でもないのに、同じ日本人の仲間同士が一緒に食事したとき、あ
る一人がテーブルに置かれたビルをさっと取り上げて支払いを済ましてしまい、食事代金
については沈黙を通すというケースが多々見られることにわたしは昔から当惑してきた。

いや、長年同じことを目にすれば、当惑よりも辟易に傾くのが正直なところだ。わたしの
考え方に従うなら、それは恩着せがましい行為に該当することになるのだから。そうやっ
て着せられる恩を拒否してクライアントにならずに裸のままの自分でいるわたしは、きっ
と付き合いづらい社会の異端児であるにちがいあるまい。

もっと言うなら、ある一人がビルをさっと取り上げると、別の一人がそうさせてはならじ
と追いすがり、キャッシャーの前でビルの奪い合いを演じるのもしばしば目にする光景だ。
この種のひとびとは世界中どこへ行こうが、同じようなことをする。


マカッサルのワルンにもうひとつ別の常識がある。数人連れだってノンクロンしに来たグ
ループ内のひとりが先にワルンを出る場合、一座の飲み食い代金はかれの背に載せられる
のである。どうりでみんな、遅くまでワルンの店内でだらだらとノンクロンしているわけ
だ。[ 完 ]