「レシピ本の歴史(1)」(2022年05月18日) ヌサンタラの料理レシピをはじめて作ったのはオランダ人だった。1872年にオランダ のネイメーヘンで出版されたIndisch kookboek: Bevattende Voorschriften om op de Beste, Eenvoudigste en Goedkoopsteが最古のものだと言われている。しかしこの書物は オランダでも東インド植民地でも、あまり話題にされなかったようだ。 ノンナ・コルネリアNonna Corneliaが書いたKokki Bitjaは1880年に9刷目が出され た。1897年にはヨハンナ夫人Nyonya JohannaがBoekoe Masakan Baroeを出している。 プリブミ料理メニューで西洋風味のあるものや、西洋料理とローカル料理を折衷させたも のなどを欧亜混血社会の女性たちが東インドのオランダ人社会に紹介したのが、ヌサンタ ラにおける料理レシピのはじまりだった。 1900年に出されたノルダインJ Noorduynの著作Hollandsch Tafel in Indieが大ヒッ トを記録して、版を重ねた。その時代の料理専門家として著名人になったカテニウスJMJ Cateniusのレシピ集Nieuw Volledig Oost-Indisch Kookboekは1902年に出版され、 後に1915年になってGroot Nieuw Volledig Oost-Indisch Kookboek: 1381 recepten van de volledige Indisch rijsttafel met een belangrijk aanhangsel voor de berei- ding der tafel in Holland と改題され、内容のもっと充実した書物に改められた。この 書籍の発行者はオランダのファンドルプNV GCT Van Dorp & Coで、同社は依然として発行 を継続しており、最新のものは2002年に印刷されている。1925年に出された第四 刷を見ると、nasi liwet, nasi goreng, gado-gado, sambal, serabi, kue putuなどのレ シピが見つかる。その他にもkwee(kue) apem Ceylon, bebotok ajam(ayam) Tegal, kwee (kue) Boegies(Bugis)などと地名や種族名の入った料理も出て来る。カテニウスは食べ物 や食事に関する書物を12冊著わした。その中には魚料理に関するものや、ベジタリアン のためのものも混じっている。 それらの先駆けに続いてもっと多くの著者がもっとたくさんの書籍を著わすようになった。 プリブミの著作がはじめて世に出たのは1930年代だった。その中で注目を集めたのは、 1935年に出版された書物Lajang Panoentoen Bab Olah-olahだ。この作品の著者カル ディナRA Kardinahは公式名をRaden Ajoe Adipati Ario Rekso Negoroとする貴族だった。 かの女はインドネシアの女権思想の先駆者カルティニRA Kartiniの妹である。カルディナ は1918年ごろに書き溜めていたレシピを女子教育のテキストに使うために書物にした。 30年代は現地語のレシピ集がまだまだ世に稀な時代で、そのためにムラユ語でレシピ集 が書かれるべきだという意識を抱いた一部の人々がその主張を叫んだ。バライプスタカは オランダ語で書かれたレシピ集をムラユ語とジャワ語に翻訳することに力を注いだ。 オランダ植民地政庁はその当時、ムラユ語とジャワ語に同じ程度のウエイトを置いていた。 政庁にとって東インドの中でジャワが最重要地域だったために、ジャワを軽視することが できなかった。おまけに、ジャワ人のだれもがムラユ語を使えたわけでもなかったのだか ら。非ムラユ系のヌサンタラ諸種族にとってムラユ語は、知識層か、そうでなければ異種 族人が集まる場所に関わっているひとびとが操る言語だったのである。ムラユ語がヌサン タラのリングアフランカだったという表現に呑まれて、ムラユ語のポジションを過大に位 置付けるイメージを持つと、正確な姿がぼやけてしまうかもしれない。 スワルシRA Soewarsihはオランダ料理のレシピ集、Boekoe Olah-olah全2巻をジャワ語で 作った。この著者もRA(ラデンアユ)であり、ジャワ貴族階層の女性たちが知的な仕事 に関わっていたありさまをそこに見ることができる。 それと並んで、オランダで作られたオランダ料理のレシピ集も東インドでたくさん販売さ れた。蘭領東インドへのヨーロッパ人移住者の増加がその需要を生み出したようだ。 [ 続く ]