「ヌサンタラのインド人(15)」(2022年05月18日) ポルトガル人・スペイン人は商人・伝道者・兵士を一個人の中に同居させたが、オランダ 人・イギリス人はそこから伝道者の顔を取り除いた。伝道は同国人の宗教組織がその専門 家を植民地に派遣して布教活動を行ったのである。相手国の中での通商経済活動が最大優 先され、優先的な活動が許容し得る範囲内での布教活動しか認められなかったということ であり、オランダ人・イギリス人が宗教伝道をしなかったという極論を語ることはできな いだろう。 2007年12月15日夜、メダン市内スアラナフィリ館にある聖トリニティアングリカ ン教会でタミル人コミュニティのクリスマスを祝う集いが開かれた。やってきたのはタミ ル人キリスト教徒だけでなく、ヒンドゥ教徒と仏教徒もいた。 参会者はみんな、盛装と華やかな装身具で身を包み、特に女性は老いも若きも華麗なタミ ルの民族衣装に黄金や宝石の装身具を着けて出席した。ざわめきの中をインドネシア語・ タミル語・英語が飛び交い、歓喜溢れる笑い声がはじける。 聖歌「きよしこの夜」のタミル語版Oopilahを全員が合唱したあと、タミルのさまざまな 伝統芸能が演じられた。タミルのオリジナル文化がスマトラの文化と溶け合ってバリエー ションを生み、メダンで発展した。スマトラ島に育ったそのバリエーションをタミル人子 孫たちは大切にしているのだ。 タミル人キリスト教徒がスマトラ島北部に移住して来たのは16〜17世紀ごろが最初の ようだ。イギリスによる植民地化が作り出したタミル人キリスト教徒のメダンへの移住が それだった。メダンに住んでいるタミル系プラナカンは7万人いて、およそ1パーセント がアングリカン派およびカトリックだそうだ。残りの99%はヒンドゥ教と仏教である。 20世紀に入ってからも、インド人のヌサンタラへの移住が続いた。そのピークは第二次 大戦後のイギリスインド軍のインドネシア駐留が終わった時と、インドパキスタン分離戦 争の時とされている。 ボロブドゥルやプランバナンのレリーフはインド哲学を明らかに示すものであり、現代イ ンド人がそれら古代インドネシアの遺産を目にしたなら、インドネシア人に対する感情に 変化が起こるとまで言われている。 イギリスが植民地インドで編成した植民地軍の兵員はもちろんインド人だった。イギリス 軍の名のもとにインド人部隊がヌサンタラにやってきたことが二度あった。最初はイギリ ス東インド会社がインドで作ったイギリス東インド軍がスタンフォード・ラフルズの指揮 下に、フランス領に変わったオランダ領東インドを占領すべく侵攻して来た1811年。 二度目は蘭領東インドでの太平洋戦争終戦処理のためにAFNEI蘭領東インド連合国軍 としてインドネシアに送り込まれて来た1945年9月のイギリス領インド植民地軍。イ ンドネシアに進駐して来たAFNEI軍がインドネシアから撤退するとき、インド人ムス リム兵士の中にインドネシアに残って定住する者がたくさん出た。 AFNEI軍のマジョリティを占めたインド人兵士の中には、イスラム教徒もたくさんい たし、シッSikh人もいた。インドネシア人はシッ人をubel-ubelと呼んだ。ウブルウブル とはジャワ語でターバンを意味する。長い髪をターバンで包んだシッ人はターバン人とい う愛称をもらったようだ。[ 続く ]