「レシピ本の歴史(2)」(2022年05月19日)

食品用素材を扱う企業にとって、料理レシピは販売促進に有益なものだ。その結果、Blue 
BandやFilmaなどの油脂製品、あるいはmaizena(コーンスターチ)製造会社などが自社製
品の使用方法を盛り込んだレシピ集を発行するスポンサーになって、Blue Band Recepten 
Boek、Eenvowdige Grondsalagen van de Kookkunst、Honderd Recepten voor Honig's 
Maizenaなども書店の一角に並べられた。

ところが、西洋大型資本企業ばかりでなく、プリブミの中に同じようなことをした人物が
出現した。プリブミとは言っても、これは華人系プリブミだ。


西ジャワのスカブミ県チチュルッで花印hunkue(粉米果)製造業を営む女性チョア・チュン
コアンが1920年代の蘭領東インドで食品界のセラブリティになったのである。フンク
エとはkacang hijau(緑豆)の粉末を指し、この言葉はインドネシア語の標準語彙になっ
ている。チョア姓は多分、蔡の福建読みだろう。

花印tjap boenga(cap bunga)フンクエは、今では国内全地方の伝統パサルからハイパーマ
ートに至るまでどこでも見出すことができるが、当時はまだその坂を昇っていた時期であ
り、バタヴィア・マカッサル・バンジャルマシンなど国内大都市やアジアとヨーロッパの
一部に販売網が広がりつつあった。バンコックとシンガポールには代理店があってタイと
マラヤへの浸透が進んでいた。チョアはフンクエの消費を高めるために、消費者に向けて
ポケット雑誌風のパンフレットを英語・オランダ語・ムラユ語で作った。

チョアは多能な女性であり、一徹のビジネスウーマンではなかった。ビジネスの成功だけ
でメディア界のセラブリティになるのは、多分容易なことではないだろう。チョアは菓子
作りの名人だったのである。そして世間一般に向かって、しばしばその腕前を公衆の眼前
で披露した。

チョアに関する記事が1917年のDe Java Bode、1925年にSin Jit Po、1927年
のIndische Courrantの諸新聞に掲載されている。

チョア・チュンコアン夫人は十数年前に小規模な会社を始めた。今やその会社は大会社に
なり、たいへん美味なフンクエ粉(最近のそれはsagoe bidji)のクオリティのおかげで
その名はインドネシアのほぼ全土に鳴り響いている。1926年7月26日付けの新聞
Bintang Borneoにはそう書かれた。

1927年3月16日付けBenih Timoer紙はこう書いた。
ジャワ島チチュルッに住むチョア・チュンコアン夫人はフンクエ(緑豆の粉末)工場の所
有者であり、さまざまな美味しい菓子類の作り方を熟知している。自分の工場で作ったフ
ンクエを使った菓子については、何をかいわんやだ。


チョアはまた、花印フンクエの使い方を教えるために書籍をいくつか出版した。そのひと
つがRecepten van Tepoeng Hoenkwe Tjap Boengaである。その中には当時たいへん有名に
なった菓子6種類のレシピが記されていた。goud en zilver, pisang hoenkwe, tjente 
manis, regenboog, pudding, bruidstranenがそれだ。そのレシピは菓子作りの基本が網
羅されていて、大勢の消費者がチョアの作品に感嘆のため息をもらした。チョアは中華風
菓子類を発展させることと、ローカルとヨーロッパの特徴的なおやつ類を取り込むことを
心掛けていた。

中華風菓子類は緑豆を使ったものが多い。上述の6種の名称はムラユ語とオランダ語が混
じり合っている。チョアが文化融合を意図していたのかどうかは分からない。


上に述べられているのは書籍についての話である。その時代、書籍を買って読まないひと
でも、大勢が新聞を読んでいた。プリブミ向けの新聞に料理レシピが掲載されることは、
20世紀に入ってから既に行われていた。

ティルト・アディ・スルヨRM Tirto Adhi Soerjoが新聞Medan Prijajiを発行する前に手
掛けていたSoenda Brita紙は1903年2月7日から発行を開始した。そのスンダブリタ
は日常生活に関わるさまざまなことがらに関する記事も掲載して、一家で読める新聞とい
うスタイルを追及したようだ。当然、料理に関するものも含まれた。たとえば、作った料
理をなるべく傷まないように保存する方法といった生活のヒントが盛り込まれた記事があ
る。[ 続く ]