「ヌサンタラのインド人(16)」(2022年05月19日)

インド人兵士の多くはインドネシア人に親近感を感じて自分たちの仲間と見なした。かれ
らが任務に就いたジャワの町を、自分の故郷とそっくりだ、と語る者もいた。インド人は
しばしば知り合いでもないインドネシア人の家庭を訪れ、インドネシア人の側もふらりと
遊びに入って来るかれらを歓迎した。そんな風にしてインドネシア娘と知り合い、後に結
婚したインド人も少なからずいたようだ。


AFNEI軍が新生独立インドネシアをオランダ植民地に戻そうとしていると感じたイン
ド人兵士はインドネシアの運命に深く同情し、所属部隊から脱走してインドネシア共和国
軍に投じる者まで出た。あるいはAFNEI軍のインドネシアからの撤退に際して、故国
に戻らずインドネシアに残るインド人兵士もいた。かれらはインドネシアを再植民地化し
ようとするオランダに反抗して、銃を執ってオランダ植民地軍と戦ったのだ。

そのしばらく前から、インドをイギリスから独立させようとした日本軍諜報機関の戦略に
乗った一部のインド人の動きがインドに民族独立の意識を渦巻かせ始めていた。しかしそ
の流れでは、日本軍と共闘するインド独立の動きが日本軍と共にイギリスに粉砕されてし
まう運命にあったことも間違いないところだ。たとえそうではあっても、民族独立の意識
は確実に残った。

祖国独立の機運がまだ熟さない段階で、インドネシアの独立は維持させてやろうとして立
ち上がったかれらの心根は、インドネシアにとって得難いものだったことだろう。インド
ネシアの独立に貢献した異民族兵士は、日本人と明治以後に日本領に加えられた土地のひ
とびとだけではなかったのである。


1947年のインド・パキスタン分離独立戦争のとき、インドゥス河の東に位置する西イ
ンドのシンドゥSindhからシンディSindhi人が移住して来た。シンドゥは現在の南パキス
タンを指している。なにしろ、そこはシンドゥSindhu河の地なのだから。つまりは、昔や
って来たコジャ人の再来ということかもしれない。戦火を逃れてインドネシアに移住する
者たちがひとつの波を作った。かれらの多くは、ジャカルタの街に親近感を抱いたようだ。

政治紛争が原因でジャカルタに移住して来たかれらには、自分の種族が何であるのかにつ
いて、隠そうとする傾向があった。そのために、かれらは自らをorang Bombayと呼んで偽
った可能性が考えられる。

ジャカルタ人はしばしば、インド人をオランボンバイと呼んだ。インド人の店はトコボン
バイだ。ジャカルタ住民がインド系のひとびとを種族に関係なくボンバイ人と呼んでいた
時期が確かにある。だからブタウィ郷土史家の中に、上記のようなシンドゥ人の作為を推
測するひとが出現することになる。その時期、ジャカルタではボンバイ人がインド人の同
義語として使われていたために、インド人自身の中にどうして自分がボンバイ人と呼ばれ
るのかが分からず、当惑するひともあったそうだ。


どうやら、インドネシアにいるインド系プラナカンはパキスタン系とヒンディ系に分ける
ことができそうだ。とはいえ、パキスタンという国家が成立する何百年も前に祖先が移住
してきていれば、子孫の意識の中にパキスタンという分類法が存在しないひとのいる可能
性も皆無ではあるまい。[ 続く ]