「ヌサンタラのインド人(終)」(2022年05月20日)

それをあえて数量化するなら、パキスタン系インドネシア国民は10万人を超えていると
語るひともある。その区分法に従ってのヒンディ系人口に比べれば、パキスタン系は数が
少ないとされている。パサルバルがインド人街だという話に関してその論者は、繊維関係
の店の多くはヒンディ系プラナカンだが、パキスタン系プラナカンの店も3〜4軒はある
と語っている。

パキスタン系インド人でオルラ期に繊維王と言われたアブドゥラッマン・アスラムはスカ
ルノ大統領の親友だった。自宅を中央ジャカルタ市ワヒッハシム通り28番地に持ち、事
務所をコタのピントゥクチル地区に構えた。スカルノ大統領の失脚とG30S事件による
政変で、かれの自宅と会社はスハルト政権が没収し、会社は政府の所有に帰した。


総分類としてパキスタン系もひっくるめたインド系について言うなら、ヌサンタラのあら
ゆる都市にインド系インドネシア国民の姿を目にすることができる。ジャカルタには2千
世帯を超えるインド系インドネシア人が住んでいると見られている。ジャカルタの他にイ
ンド系インドネシア人の多い都市はメダンやスラバヤだ。中央ジャカルタ市パサルバルか
らピントゥアイル一帯にかけてのエリアにインド系の影が濃く感じられるとはいえ、ジャ
カルタのインド人家庭は随所に散らばっていてインド人街という文化的なまとまりを持つ
エリアはない。それでも19世紀半ばにオープンしたパサルバル商店街にインド人の店が
少なくない。

かれらは繊維製品販売・縫製業・スポーツ用品店などの分野でビジネスを行う者が多い。
その中でシンドゥSindh系やプンジャビPunjab系の商人たちは成功者が多く、他のインド
系移住者よりも経済的に安定し繁栄しているようだ。


多くのインドネシア人にとって、インドという国とその人や文化は独特の印象を感じさせ
るもののようだ。たとえば、昨今のボリウッド映画の人気を思い起こしてみれば良い。ボ
リウッドの時代がやってくるはるか以前の1950〜60年代にかけて、インド映画はイ
ンドネシアで大ヒットを続けた。それが一旦途切れたのは、政治がからんでインド映画の
輸入が禁止されたためだった。そんな昔の時代ですらビートのきいた音楽が映画の中で使
われ、インドネシア人のソウル音楽であるダンドゥッの完成に影響をもたらした。

いったいどういう関係があったのか、インドネシアの映画制作界にはインド系のひとびと
の名前が目立つ。ヒットしたテレビ映画のプロデューサーの名前をよく見ていると、ラア
ム・プンジャビの名前がしばしば登場する。他にもラアム・ソラヤ、ゴペ・サムタニ、ハ
リス・レスマナなど、映画の世界で活躍しているインド系のひとびとは少なくない。

インドネシア人はインド映画も好きだが、インド料理も好きだ。2000年代初期にイン
ド料理レストランはジャカルタに25軒あり、パキスタン料理レストランも2軒あった。
マルタバッに至っては、あらゆる辻々にグロバッが出て夜中まで営業している。

マルタバッについては、1930年代にマラバールの地名がバタヴィアで人口に膾炙した。
他でもない、食べ物の名称martabak malabarという名前でだ。東モーレンフリート通りに
オープンしたそのマルタバッの店は、案の定、インド人がやっている店だった。その故事
が、マルタバッの発祥がインドであるという説をインドネシアに生んでいる。[ 完 ]