「レシピ本の歴史(4)」(2022年05月23日)

インドネシアのレシピ本はだんだんと層を厚くして行った。もちろん、インドネシア料理
だとインドネシア人が感じているオランダ・中華・アラブなどに由来する料理もその中に
混じっている。

そのようなものはインドネシア料理でなくて外国料理のレシピではないのだろうか?その
問題は線引きがたいへん困難だ。しかし少なくとも、元来が外国料理だったとしても、イ
ンドネシア料理レシピとして紹介されているものは、素材がインドネシアのどこでも容易
に手に入るものになっているし、味付けもインドネシアの舌にフィットする風味になって
いる。

中華料理のインドネシアプリブミ社会への広まりを反映して、中華由来のインドネシア料
理レシピ集も登場した。素材にまず豚肉は出て来ず、たいてい鶏肉やエビに替えられてい
る。1957年にChina Reconstructsの付録として世に出た50 Chinese Recipesが当時の
インドネシア化した中華由来料理の流行をシンボライズするものという評価を与えられて
いる。

ジャワ語のレシピ本もまだ作られていて、1958年にはOlah-olah Komplitの初版本が
発行された。


1960年代にスカルノ大統領が関心を寄せたインドネシア料理の集大成Mustikarasa 
-Buku Masakan Indonesiaが1967年に世に出た。全1,123ページにのぼったこの
大作の出現は、1960年に農業大臣が大統領との会話の中で指示を受けたことに始まる。

統一国家・独立インドネシアの国家的団結を最大関心事のひとつにしていたスカルノが雑
多な種族文化の集合体であるインドネシア共和国を統一的インドネシア文化の中に包もう
と考えて行った諸政策のひとつがそれであったと解釈することができるだろう。ジャワ料
理もカリマンタン料理もインドネシア料理の中のひとつの料理にならなければならないの
である。

植民地における民族主義の高揚と父祖伝来の地における民族主権の回復のために全身全霊
を打ち込んだスカルノが食の世界に強い関心を示したムスティカラサの出版について、ス
カルノのイメージとの違和感を感じるひとも多かったようだ。しかしスカルノも人間であ
り、食という原初本能的行為に無関心であったはずはあるまい。スカルノ本人も、どこそ
こで食べたなになにはどうだった、というコメントを周囲の人間に漏らしたこともあった
らしい。ただスカルノは、速く料理を食べて食事を早く終わらせ、一緒に食卓を囲んでい
るひとたちに能弁を振るうのが習慣だったそうだ。そしてその弁舌がなかなか終わりにな
らなかった、とスカルノと一緒に食卓に就いたことのある家族親族・友人・部下の政府幹
部要人・外国からの外交官やインドネシアを訪問した国賓たちは語っている。

スカルノの生涯はインドネシア性なるものの具現のために費やされた。そのイデオロギー
の表現・国家構造・国民・国語・国章・国旗・・・。その一連の具象の中に衣装服装や芸
術芸能と並んで料理が位置付けられるのは当然の帰結だったのではあるまいか。

1960年にスカルノからインドネシア料理の集大成を出版せよと指示された農業大臣は
省幹部に対してメモ書きの指令を与えた。各地方で得られる食材は美味な料理にすること
ができ、それは民衆の健全な身体の成育に大きい効果をもたらす。他の土地の民衆が地場
で得られる食材をどのように料理に使っているのかを知ることは、自分の土地が持ってい
る豊かさへの認識と愛着を発展させるための参考知識になりうるものだ。民衆が国民生活
を送るに際して、他地域の同胞の姿をよりよく知ること、参考にできるアイデアを他所か
ら吸収すること、そしてもっと重要なことは、コメ偏重の考え方を改めて地場に存在して
いる食材の使用を高めることが国民のための食糧対策にならなければならない。その国民
指導書としてのインドネシア料理の集大成を作って世に送り出すのが、バパプレシデンが
われわれに与えた責務である。大臣はそんな内容を部下の局長たちに伝えたことだろう。

数年かけて全国各地の行政機構が女性組織や子女教育機関から集めた1千6百件のレシピ
が農業省内に蓄積された。インドネシア性というコンセプトのもとに行われたこの事業は、
もちろん前史未曽有のできごとだった。そんなスコープの広さを持つ活動を一個人や一私
企業が行えるはずがない。その書籍出版は国家組織が関わらなければ実現しなかったもの
だったのである。[ 続く ]