「レシピ本の歴史(終)」(2022年05月24日)

1千6百件のレシピの中には、そのまま印刷にまわせるものもあれば、それを読んでも料
理を作るのは無理という拙劣なものもあった。特に大きい問題は、地方/種族ごとの個性
的な言語表現・名称・秤量単位のばらつきなどだろう。

出版企画コミティは各地に赴いて、それらのレシピの正確さを調査し確認するとともに、
全国各地の料理を単一の規準に従って解説するための準備をしなければならなかった。現
地では料理のデモンストレーションも行われて、企画コミティと一緒にレシピの表現内容
のピント合わせがなされた。加えて、ある地方のある料理に栄養面や毒性などに関する良
くない噂が付着していることもあるため、企画コミティはラボ検査まで行って掲載される
レシピの完璧さに配慮している。

それらの仕事は1964〜65年に完了して、原稿はほぼ完成した。ところが、G30S
事件のために印刷作業が延期されてしまった。結局、スカルノが望んだインドネシア料理
の集大成は7年かかってスハルトレジームの中で完成し、書物の形になったのである。


オルラレジームの否定が基本姿勢になっているオルバレジームに、ムスティカラサの書を
国民に浸透させる意欲は存在しなかったようだ。1967年には書籍販売ルートに多少の
冊数が流された。だがその後が続かなかった。オルバレジームの姿勢のために流通が規制
されたのか、それとも現実に国民の間に需要が起こらなかった、それはよく分からない。

この書は背負った政治色と希少価値のゆえに、コレクターズアイテム市場で売買される物
品にされた。料理関連分野の知識人や活動家の間ではそれほどの関心も需要も起こらなか
ったように見える。こうして、初版第一刷として作られた書籍の大半が長い期間、そのま
ま倉庫に眠ることになった。50年近くも眠ってしまったのだから、半端な眠りではない。

おまけに綴りが昔の綴りになっているから、それをいま世の中に放出しても現代インドネ
シア人は読む気を起こさないだろう。


この書は2010年代になってジャカルタのコムニタスバンブが編集し直して再発行した。
表紙は1967年の最初のものを模写してあるが、タイトルのMUSTIKARASAは同じでも、
副タイトルがResep Masakan Indonesia Warisan Sukarnoと変えられている。

コンパス紙記者アンドレアス・マルヨト氏によれば、1970年代以降に出されたレシピ
本の中でムスティカラサを参照しているものは皆無だそうだ。すくなくとも、かれが読ん
だ、1970年代から90年代までの間に出版されたレシピ本の中にはひとつもなかった。

更に1990年代以降にテレビで盛んになった料理番組が、ムスティカラサの書を忘却の
彼方に押しやった。テレビ画面から、あるいはユーチューブの料理動画の中で、ムスティ
カラサという言葉を耳にしたことは一度もない、とかれは書いている。

インドネシア性という理想を掲げたスカルノが食の分野に期待をかけて作らせたムスティ
カラサの書は、インドネシア国民の意識に陰すら残さなかった。そして今、国民生活にお
けるインドネシア性の完ぺきな実現にまだまだ距離のある状況を眺めて見ても、その理想
に近付こうとする意欲や努力を感じ取ることができない。ムスティカラサの書がたどった
道はこの民族が歩んでいる道を象徴しているのではないか?アンドレアス・マルヨト氏は
そう語っているのかもしれない。


1970〜80年代にレシピ本はますます増加し、外国料理のレシピもまじるようになっ
た。この場合は外国料理としてのレシピだ。印刷技術はまだ低く、写真もたいていが白黒
で、少ないカラー写真も色がにじんでいるケースが多かった。ポケット版サイズで出版さ
れるものもあった。販売ルートは小規模書店や文房具店の片隅に置かれるのがマジョリテ
ィだった。そのころまで、レシピ本の読者はまず女性ばかりだったと言って過言ではある
まい。それまでの社会常識では、台所は女性が主権者であり、料理の主体者は女性である
とされていたのだから。

1990年代終わりまで、レシピ本の内容は女性を主体者に置き、女性に語り掛ける語調
で書かれるのが普通だった。ところが21世紀に入った最初の10年間に、その性差は消
滅して行ったのである。[ 完 ]