「黄家の人々(21)」(2022年06月24日)

何年もの間、キムニオと実家の母の間は音信不通だった。そしてある日、手紙が来た。夫
のレヘントは引退し、次男が跡を継いだ。長男はプカロガンのパティになった。リムニオ
もイスラムに入って名前を替えた。兄弟姉妹の関係はうまく行っている。そんな近況を知
らせる手紙だった。

夫のレヘントはこの華人妻をいつも優しく大切に扱ったため、ファティマが夫婦生活に不
満を抱いたことはなかった。ファティマはプカロガンで名士になり、華人社会との交際も
好んで行った。華人たちもかの女をラデンアユと呼んで親しみを示した。親しくなった一
家にイスラムを教えて入信させることもしばしばだったし、イスラムに入った華人たちの
面倒をよく見て、商売の資金を貸したりプリブミ社会との間を取り持つなどしてムスリム
華人の暮らしの向上を助けることに努めた。


今は黄姓の富裕者がオーナーになっている自分の実家を、老いてきたファティマは時々訪
れた。そこには少女時代・娘時代・若い母親になった時代の思い出がたくさん残されてい
る。その家の住人達もラデンアユを親しく受け入れた。

その日、ファティマはその家にやってきた。オーナーの夫人がラデンアユの来訪を歓迎し
た。茶飲み話が一段落したあと、夫人が裏庭を散策しましょうと誘った。ふたりは家の裏
手の、昔畑になっていたところを散歩した。

その裏庭の奥まった場所に墓碑があるのを見て、ファティマは不審を抱いた。昔こんなと
ころに墓はなかった。近寄って墓碑を見たとき、ファティマは愕然とした。彫り込まれた
文字はウイ・キムニオとなっていたのだから。「ああ、父さんはわたしをここに埋めてし
まったんだ。父さんにとって、わたしは死んだ人間なんだ。」ファティマの心の奥で、な
にかが崩れ落ちた。

ファティマは何変わらない普通の様子でその家を辞したが、家に帰ってから床に伏して起
き上がることができなくなった。容態は日々悪化するばかり。夫は八方手を尽くして優れ
たドゥクンや医者を招いたものの、何らの効験も得られないままシティ・ファティマ・ラ
デン・アユ・カノマンは世を去った。


ティオ・チンブン著「ウイ・セ物語」はキムニオの死で幕を閉じた。だが、そこでウイ・
セ一家のストーリーが終了したわけではない。著者不明の書Tambahsiaが1915年にス
マランで出版された。タンバッシアは1827年にプカロガンで生まれた、ウイ・セの次
男だ。父親とまるで正反対の性格を持ったこの次男は、悪名と社会からの憎悪の中で生涯
を閉じた。長男のババカチュンが中国に移ってからほどなく父の祖国で没したことも、そ
の不幸を煽る方向に作用したのではあるまいか。

ウイ・セは事業を更に大きくしようとして、中国との貿易を進めるために長男を中国側の
窓口責任者として派遣したのかもしれない。ウイ・セを次々に襲ったそれらの不幸を、か
れはフィクニーの呪いと考えただろうか?


バタヴィアでビジネスを開始したウイ・タイローはトコティガ地区に店を開き、しばらく
後にタングランのチュルッにあるパサルバル地区の土地を買って大地主になった。そこか
ら年間9万5千フルデンもの地代が上がったのだから、それだけでもう遊んで暮らせるほ
どの財力だ。その当時、10フルデンあれば質素な暮らしを一年間営むことができたと言
われている。あれやこれやで年々貯まって行くこの一家の財力に社会がどのような思いを
抱いたかは想像に余りある。

しかし社会交際術に長けたかれは如才なく諸方面と交流し、貧困者をも自分と同じ人間と
して遇して偉ぶる姿勢を示さず、他人を助けることを好み、社会に役立つことをしようと
する意志を常に見せていたから、たいそう世間の好評を招いて人望も高まった。

華人カピタンやマヨールからも受けがよく、しばしばかれらの資金面での急場を救ったた
めに、華人オフィサーの最下位であるレッナンの役職を勧められてコンシブサル地区のレ
ッナンチナに就任し、ついに社会的な名士のひとりになったのである。[ 続く ]