「黄家の人々(22)」(2022年06月27日)

その栄華の頂点にあったウイ・タイローは1838年にバタヴィアで死去した。享年50
歳。ウイ・セが生涯をかけて築き上げたこの一家の家長の座は最年長の息子、11歳のウ
イ・タンバッシアに引き継がれた。そのとき、ウイ・タイローの家督を継ぐべき子供はタ
ンバッシアとマカウシアのふたりだけだったのだ。

タンバやマカウという本人名にsiaという言葉が付けられたのは、華人オフィサーという
名誉な役職者の息子であることを示すためだと言われている。普通の子供とは格が違うと
いうことを、そんな手段で示していたのだろう。

タンバの綴りは本来/h/が付かない。ところがTamba Siaを発音すると、自然にTambahsia
という音に聞こえるため、TambahsiaやTambah Siaという綴りのほうが一般化したらしい。
シアという言葉の語源はよく分からない。聞くところによれば、「無駄」を意味するイン
ドネシア語sia-siaはそこに端を発した言葉であり、親が大金持ちになったり社会の有力
者になると子供はsia-siaになるという教訓混じりの表現が出来上がったのだと語るひと
もいる。並みでない大金持ちの父から巨額な遺産を受け継いだ11歳の少年家長は、はた
してその言葉通り、シアシアの道を歩んだだろうか?


タンバッシアは15歳になった。バタヴィアでこの少年の名を知らぬ者はいなかっただろ
う。一部のひとはタンバッシアを見映えの良い、かっこいい青年だと評したが、もっとた
くさんのひとが金の値打ちを知らない放蕩息子だと噂した。この若者はたいへんなおしゃ
れで、しかも自分の身を飾るのに金を惜しまなかったから、バタヴィアの上流層の中でも
ひときわ目立つ風采を放っていたのだ。

朝な夕な、形よく仕立て上げられたオランダ風のズボンに黒絹の上着を着て頭巾をかぶり、
堂々とした風格のバタッ馬にまたがってバタヴィアの街中を流して歩くタンバッシア少年
の姿が人目を引いた。この黒毛の馬の体毛はまるでペンキを塗ったかのように黒光りし、
歩くときは頭と尾をしっかりと立て、気性は荒く、常に今でも駆けだしそうな風情を示し、
前脚を上げて立ち上がるそぶりをよく行い、いざ駈け出せば風のように走ったから、thufan
(突風)と名付けられた。

バタヴィア最高の馬と言われた8百フローリンもするトゥファンにまたがって街中を闊歩
するタンバッシアは実に見映えのする絵になっていて、おまけに乗馬の腕も群を抜いてい
たから、たくさんのひとがかれをほめそやした。街中で大勢が自分に注目していることに
気付くと、かれは曲芸じみた馬の扱いを示してひとびとを感嘆させ、視線が憧憬の色を帯
びるのを愉しんだ。


タンバッシア少年が街中に出かける時はいつも、その後ろをニ三人の用心棒が付いて回っ
た。ひとりは華人のウイ・チュンキ、あとはプリブミのピウンとスロで、喧嘩の強いやく
ざ者たちだ。

この種の、一家の主を守護する親族や使用人はcenteng(親丁)と呼ばれた。中国語の親
丁は元々大家族の中の一員を意味していたが、だんだんと家長の身を守るガード役担当の
一族の人間を指して使われるようになり、そのうちにガードマンとして雇われた一族外の
者もチェンテンと呼ばれるようになった。血族外のチェンテンも親子代々が雇い主一家の
ガード役を担うようになって、主従関係の中で一家のために仕える郎党・身内という形に
変化して行った。日本の古代貴族社会が侍という役割の人間を持つようになったプロセス
とよく似ている気がする。

インドネシア語でチェンテンは常に暴力の含意の下で使われていて、善や正義といった語
感を持っていない。ブタウィ語ではその同義語のひとつとしてtukang pukulという言葉が
使われていた。それを知ったとき、「殴り屋」とは実に本質を衝いた表現だと、わたしは
舌を巻いたものだ。

チェンテンはただボディガードをしていればよいのではない。地主の家長が借地人から金
を取り立てる時、あるいは高利貸しの家長が借金返済を相手に迫る時に、チェンテンは殴
り屋になったのである。[ 続く ]