「黄家の人々(47)」(2022年08月01日)

しかしインニオはそんな言葉に耳を貸さなかった。インニオは男の手から逃れようとして
全身で暴れ、タンバッシアの手から滑り落ちた。そしてタンバッシアの足元にひざまずき、
タンバッシアを拝跪して同じ言葉を繰り返す。男の心をとらえようなどということを一度
もしたことのないインニオに、これはちょっと荷の重すぎる事態だったようだ。

わたしは今妊娠しているので、わたしの身体にひどいことをしないでください。どうかす
ぐに夫の元に帰してください。いくらそんな言葉が繰り返されようが、タンバッシアの心
に同情心など湧くはずもない。そんなことをするくらいなら、最初からこんなことをして
いない。今のタンバッシアには、この欲情の埒をあけること以外の気はなかった。

ただ、タンバッシアは嫌がる女をむりやりレープするような嗜好を持っていなかった。自
分に抱かれて性の喜悦に浸る美しい女の顔を見ることが、かれに最大の歓喜をもたらす性
行為なのである。

タンバッシアはサエラン師を室内に入らせて、この女は言うことを聞かない頑固者だと言
った。タンバッシアの足元にひざまずいて、泣きながら必死でお願いしているインニオは、
別の男が室内に入って来て自分の後に立ったのに気付かなかった。

ドゥクンは即座に目をつぶり、呪文を唱えながら口をモグモグさせていたが、突然大声で
「リム・インニオ!」と叫び、驚いて振り向いたインニオの顔に口中に溜まった唾を吐き
かけると、すぐに背を向けて部屋から出て行った。

驚いたインニオに変化が起こった。数秒後には涙を流すことも嘆願することも忘れ去り、
呆然としたまま何の抵抗もせず、タンバッシアの手の中でおとなしくなったのである。イ
ンニオが夫にしていたのと同じ反応がタンバッシアに示されたのは言うまでもない。


それからしばらくの間、タンバッシアはインニオの肉体に溺れた。一方、妻を大金持ちの
ババチナに奪われたアサムは怒りと恨みを抑えようもなく、トコティガ地区にやってきて
アモックするそぶりを示したため、タンバッシアはウイ・チュンキにその始末を命じた。
いや、ピウンとスロのやるような荒療治ではない。アサムに金をやって祖国に帰らせろと
いう命令だ。

最初アサムはこのとんでもない出来事に加えて人非人としか思えないやり口に腹を立て、
チュンキの持って来た話を蹴ろうとした。愛する女を力づくで奪われた上に金をやるから
この土地から消えろと言われてそれを黙って受けたなら、「おまえはそれでも男か?」と
誰もが言うだろう。こんな恥さらしがこの地上にあってよいはずがない。

だがさすがにチュンキはタンバッシアのチェンテンだった。相手の顔色を見、話しの進ん
でいく方向を読み、自分が求める方向に向けて相手を説得して行く技術力は並大抵のもの
ではない。あの大金持ちのババチナにこれまで勝てた人間はいない。華人マヨールさえも
が一目置いている。あくまでも盾突けば、明日の夜明けを見ることができるかどうかわか
らない。そんな脅しが効いて、アサムの雄々しさは次第にしぼんでいった。


アサムは大金をもらってバタヴィアを去った。船に乗る前夜、最後に一目でもインニオに
会いたいと思ったアサムはアンチョルのビンタンマスにやってきて、その機会を探した。
だが、ビンタンマスの人間に見つけられ、ピウンが出て来たためにアサムは必死に走って
逃げた。もしも捕まったら、アンチョル川に投げ込まれてワニの餌食になっただろう。

翌朝バタヴィアを出る中国船に乗ったアサムについては、航海中に海に溺れて死んだとい
う知らせがだいぶ経ってからパテコアンの友人たちの耳に届いた。航海中の船の船腹が波
に破られて浸水し、数十人の乗客が海中に落ちて助からなかった。アサムもその中のひと
りだった。[ 続く ]