「黄家の人々(48)」(2022年08月02日)

インニオはビンタンマスの中で数カ月、満ち足りた日々を送った。美しく着飾り、美食を
口にし、下男下女にかしずかれる暮らしを嫌がる人間はいない。ましてやタンバッシアが
いつも自分を優しく扱ってくれるなら、不満の種を探す方がむつかしいだろう。

だが妊娠六七カ月になってきた大きな腹の女は、どんなに顔立ちが美しかろうともタンバ
ッシアの性的審美感に合致しないものだった。おまけに、探り尽くした女の肉体に飽きが
来る時期でもあった。あげくの果てに、タンバッシアは巨額の手切れ金を与えてインニオ
をボゴールの実家に送り返したのである。

インニオはアサムと始めた新しい人生のすべてを失い、ただ巨額の金を与えられて結婚前
の状態に戻された。もちろんその金額に頼って一生を送ることなどできはしない。生きる
希望を失ったインニオは悲嘆にくれてなりふりかまわぬ日々を送るようになり、病におち
いって胎児と共に生涯を終えた。


プカロガンの華人オフィサーの家に生まれたリム・スーキンは、性格の良い好青年だった。
子供の頃からよく勉強したので、漢籍を読み、漢文を書き、オランダ語を流暢に話すよう
になった。普通、華人オフィサーになる者は大金持ちだ。単に自分の身を粉にして働くだ
けでやっていけるものではない。オフィサーとしての支出は並みの人間で賄いきれないか
ら、自然と大金持ちがその職に就く。

オフィサーであるかれの親はアヘン公認販売者の権利を得てプカロガンのアヘン流通販売
を行っていたが、その事業がうまく進展せずに財産を食いつぶす結果になってしまったた
めに、スーキンは自分の身を立てようとしてバタヴィアに出て来た。スーキンも華人オフ
ィサーの子供だからシアの尊称が名前に付く。ここからはかれをスーキンシアと呼ぶこと
にする。

先にバタヴィアに出てタバコ事業を行っていた、プカロガンで親しかった知人を頼ってか
れはバタヴィアにやって来た。知人はかれを歓迎してしばらく自宅に滞在させた。スーキ
ンシアはいつまでも居候を決め込むのも恥だと考えて、自分で小さい一軒家を借りて移っ
た。礼儀正しいインテリの好青年は周囲のひとびとに好かれ、中でも華人オフィサーたち
がかれとの交際を望んだためにスーキンシアのバタヴィアでの交友の輪は広がって行った。

そういうひとの輪を介して、バタヴィアのアヘン公認販売者の5人が作った会社組織ゴー
ホーチャンと親しくなった。アヘン公認販売者の父親を手伝ってアヘン関連の仕事をした
経験を持っているスーキンシアはゴーホーチャンにとってたいへん有用な相談相手になっ
たのだ。会社オーナーの5人もかれを贔屓にした。

アヘンの流通販売に何か問題が起こると、スーキンシアはよくゴーホーチャンに呼ばれて
相談を受け、それが終わるとみんなでカード賭博をして遊んだ。そして行き着くところ、
スーキンシアはアヘン公認販売者代理人の職に就いたのである。俄然、かれの暮らしは金
に不自由しないものになった。そんな華人コミュニティ上流層との付き合いは、当然なが
ら華人マヨールとの交友関係に発展した。マヨールも漢文漢籍の造詣深いスーキンシアを
重宝して、まるで自分の片腕のように遇したから、かれの名と顔が華人コミュニティに売
れるようになったのも当然だ。

世の中に新星が出現すると、それに惚れ込んで頼まれもしないのに子分になりたがる人間
がいつの時代にもいる。子分は一種の食客になって親分に尽くし、親分は子分に食を与え
るのである。華人にはそういう傾向が強いのかもしれない。スーキンシアの周りにそんな
人間が集まり、かれがどこかへ行くときには親分の周りを子分どもが囲むようになってき
た。もちろんヤクザ集団ではないのだから、市民もほほえましくその様子を見ている。

マヨールはこの役に立つ若い好青年に男の一人暮らしをさせておくのは良くないと考えて、
妾に産ませた自分の娘と結婚させた。スーキンシアはバタヴィア華人マヨールの婿になっ
たのだ。こうなれば、かれはバタヴィア華人社会の頭領の懐刀になったわけで、輝かしい
社会的地位を得たことになる。本人自身もその立場にふさわしい姿勢と能力を示したから、
おのずと世間はスーキンシアに高い評価を与えた。[ 続く ]